小沢 ご著書を大変興味深く拝読いたしました。私のことがたくさん書いてあって驚きましたよ。いろいろと記されてありますが、そんなに大層な者ではございません。
山崎 当時の小沢先生と私は、同じ自民党とはいえ、派閥も違えば、政治思想も理念も手法すらも異なる立場。決して深く関わり合うことはしませんでしたが、政治史に残る場面には必ず小沢先生がおられたという印象です。まあ、今回は、政治が最も躍動していた時代について本音で語り合いましょう。
小沢 若い頃はあまり山崎先生とご一緒した記憶がないんですよ。私は田中(角栄)派で中曽根(康弘)派の山崎先生とは派閥が違いましたから。それに私は山崎先生より、当選年次がたまたま1期早く、接する機会が少なかった。
山崎 小沢先生と最初にご一緒したのは、1983年、中曽根内閣の時でしたね。ロッキード事件で国会が荒れるなか、小沢先生は議院運営委員会の委員長というお立場で、私はその議運の筆頭理事でした。
その折、野党から提案された田中角栄議員の辞職勧告決議案が衆議院本会議に上程されないよう僕は一生懸命働いたつもりなんだけど、小沢委員長から「働き具合が悪い」と思われてるんじゃないかなといつも気にしていました(笑)。
小沢 山崎先生が務められた議運の筆頭理事は、野党との交渉でも全責任を負う、一番しんどい仕事です。国会が事実上止まっても議運だけは窓口として動いている。
山崎 お話の通り、国会が止まっても、議運だけは動かしておかないと国会審議を再開できません。与党の筆頭理事は国会が止まればすぐ動かす責任を持った大変な役回りなんです。
話を戻すと、「中曽根総理が本当に田中先生を守ろうとしているのか」と、小沢委員長は私の動きを見ながら疑わしく思っていられたと思います。ところが中曽根内閣はいわゆる「田中曽根内閣」と言われていたくらい、あの当時は、田中さんの支持なくして政権はもたなかったわけです。
つまり中曽根総理が後藤田(正晴)さんを官房長官に起用したのは、田中先生に恭順の意を表したということです。私も中曽根総理の意向を体して、小沢委員長の顔色をうかがっていたわけです。
小沢 何をおっしゃいますか。とにかく、田中先生のことは自分のオヤジのことですから、動きたいが中立の委員長の立場がそれを許さない。山崎先生に頼って、お願いするしかなかったわけです。