開戦2日前、東條はなぜ寝室で号泣したのか…「昭和の怪物 七つの謎」

保阪正康×半藤一利
週刊現代 プロフィール

保阪 それにしても、東條と石原は、対照的な軍人でしたね。

東條は軍人として、最高位まで上り詰めたけれど、A級戦犯で処刑された。一方の石原は、軍人としての栄達は掴めなかったが、戦後、旧軍人で唯一、全集が出版されるなど、根強い人気を誇っています。

東條は揮毫を求められると、「努力即権威」と書くほど生真面目で、下僚の者は上官の命令に従えばよいと考えるタイプでした。

それに対して石原は思想の人で、軍人に託された倫理などより、自分たちは20世紀前半に生きる日本人だと考えます。だから部下の軍人たちを、「人間」として扱った。

「戦争は精神力の勝負」が信条の東條からすれば、石原は「統制を乱す軍人」であり、石原からすれば東條は「思想のない軍人」と映ったわけです。

石原は、上司である東條に向かって直接、「あなたは屁理屈をこねる軍曹のような性格だ」とコキおろしたことさえありました。そのため、太平洋戦争の間、東條は石原を監視し続け、毎月1回、特高警察幹部が石原宅へ威圧をかけに行っていました。

半藤 東條は本当に、人を見る目がない軍人でしたね。武藤章(近衛師団長)が飛ばされてからは、周囲はゴマすりばかりになった。人事は、カツ夫人と布団の中で決めると囁かれていたほどでした(笑)。

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保阪 私は、延べ4000人に上る証言者の話を聞いて、昭和10年代の陸軍の最大の誤りは、東條人事にあったと思い至るようになりました。

他の陸相の場合は、局長以上の人事だけを行い、それ以下は部下に任せた。しかし東條は、下の位まですべて自分で決めました。

政務室の大机に各省の人事配置図を広げ、赤鉛筆で一人ずつ、誰をどこへ持っていくかという作業にいそしんでいたのです。

その際、自分に従順な幕僚だけを中枢に据え、そうでない者は、容赦なく激戦地に飛ばしてしまった。東條のせいで戦死した幕僚が、いかに多かったか。

半藤 まあ、戦時の宰相としては最低だね。あれでは士気が下がるし、海軍とも対立してしまう。

ただ、国民には人気があったんですね。当時、軍人のことは呼び捨てにしていましたが、東條だけはなぜか「東條さん」と呼んでいましたよ。

東條は、陸相になって用賀に引っ越しますが、大きな家でもなく、質素倹約に努めていましたね。

保阪 東條は毎朝、馬に乗って散歩する習慣がありましたが、馬から降りて子供の頭を撫でてやったりする。また首相になっても、首相官邸の電話交換手にまで、菓子を配ったりしていました。

他にやることがあろうがと、言いたくもなりますが(笑)。

 

――そんな東條首相に対して、暗殺未遂事件が勃発しますね。

半藤 昭和19年('44年)夏のことです。このまま東條内閣が続いたら、日本が滅んでしまうという危機感から沸き起こったものでした。

私は後年、首謀者だった津野田知重少佐から生々しい話を聞いています。同志の柔道家・牛島辰熊と二人で「意見書」を書いて、宮様方に送り、石原莞爾にも見せた。それに目を通した石原は、赤鉛筆で「同意」と書いたそうです。

保阪 私は、牛島のほうから話を聞いています。ピストルや手榴弾などでは、手元が狂って失敗することになりかねない。

そこで習志野のガス学校が持っている青酸ガスを詰めた爆弾を使うことにした。閣議が宮城内で行われるので、往復の車中を狙ったわけです。

そして、いよいよ決行となった時、思わぬどんでん返しが起こった。何と7月18日に、東條が首相を退任してしまったのです。