開戦2日前、東條はなぜ寝室で号泣したのか…「昭和の怪物 七つの謎」

保阪正康×半藤一利
週刊現代 プロフィール

戦後に平和を説いた石原

――その東條英機の陸軍内で最強最大のライバルと言えるのが、陸軍士官学校で4期下の石原莞爾です。石原は、犬猿の仲だった東條らとの権力闘争に敗れて、東條が首相に就く昭和16年('41年)に陸軍を去ります。

このもう一人の「怪物的軍人」については、どう見ていますか。

半藤 終戦直後の昭和20年('45年)8月28日、『読売報知新聞』のインタビューで石原莞爾は、「軍備を撤廃した上、今度は世界の輿論に、吾こそ平和の先進国である位の誇りを以て対したい」と語っています。

その記事を読んでいた私の父は、「こういう立派な哲学者が軍人にもいたのか」と、感心していました。それまでの帝国軍人のイメージと、あまりにかけ離れていたからです。

石原が死去したのは、東條が死去した翌年の昭和24年('49年)ですが、晩年には、宗教家の側面が強かった。

保阪 たしかに石原は、日蓮宗の信者でした。有名な「世界最終戦争論」によれば、最終戦争の後、世界に永久平和が訪れるとしています。

これは現実的ではなく、まさに宗教の世界です。

関東軍(中国東北地方)勤務時代の部下に話を聞くと、「石原将軍の後を行くと絶対に弾に当たらなかった」と証言します。また、最期を看取った元新聞記者の秘書に聞くと、「死ぬ瞬間、魂が抜け出るところを目撃した」と真顔で言う。

そのように、周囲が次々と「信者」になっていくんですね。

昭和史の書き手として言えば、東條を描くのは一本線で簡単ですが、石原を描くのは、まるで7方面くらいから登山するようなもので、能力が試されます。

石原は、まさに昭和前期の怪物的存在です。

 

東條vs.石原の火花

半藤 書くのが難しいというのは、石原の特徴である「諦めが早い」こととも関係あるでしょう。

関東軍参謀時代の昭和6年('31年)に、石原が中心になって満州事変を起こした時も、本庄繁関東軍司令官が拡大を断固として許さないと言うと、石原は「もう止めた」と言って、寝転がってしまう。

満州事変はその後、「ハチに刺されても3日後に痛いと言う」と称されるほど図太い神経で知られた板垣征四郎(関東軍高級参謀で後の陸軍大臣)が説得し、本庄が最後に首をタテに振った。それで成功したのです。

東條との権力闘争でも、石原はあっさり諦めて陸軍を去り、京都から故郷の山形へと引っ込んでしまった。