20世紀の哲学は「哲学の墓場」である——新たな原理の構想に向けて

『欲望論』の著者、竹田青嗣氏に聞く②
竹田 青嗣 プロフィール

――それは、自分だけの感度としてだけではなく、だれの感度としても、ということでしょうか?

もちろんです。だれにでも確認できるものでなければなりません。現象学で言う内省とは、私の「意識」のはたらきによって、みんなの「意識」においてもこうなっていると思えるものだけを取り出す、ということですから。

では、その場合、動物とは決定的に異なった人間の欲望の本質とは何か?

それは自己承認への欲望であり、美と善きものへの欲望である。これが第一歩。

つぎに、こうした人間の欲望は、いったいどのようにして生じるのか?

それを「物語」ではなく、だれもが先ほども言った自分の「内省」によって検証できる仮説として提示すること、これが次の一歩です。

もちろん乳児期の記憶は誰にも存在してはいないので、この仕事には困難がつきまとうことも事実です。

しかし、「よい-わるい」や「きれい-きたない」という言葉が自分の内でどのような意味を持って存在しているのかということであれば、誰にでも自分で確認できるはず。

このことが、私の言う発生論の根拠になっているのです。

――ということは、ここで言う欲望とは、ほぼプラトンのエロースだと思って、とりあえずはいいですよ、と?

その通りです。プラトンのエロース説の、方法的な編み直しです。

プラトンは、「善」と「美」の欲望が人間の欲望の本性だと言いました。しかし、なぜそれが人間の欲望の本性なのかは「寓話」でしか語ることができなかった。

私が企てたのは、「お話」による説明ではなく、あくまでも哲学的な方法に則った発生論なので、新しい仕事になるかなと。

 

ポストモダン思想の限界

――要するに、プラトンが証明できていないことを証明した、と。

むしろプラトンの直観の正しさを、哲学の原理としてはっきりさせたかった、そう言った方がいいですね。価値論こそは哲学の本義であるというニーチェの考えの元をたどれば、そこにはプラトンがいますから。

現代思想は、この最も重要な価値の問題、すなわち人間のエロスと倫理の問題を扱えなくなってしまいました。ウィトゲンシュタインが言ったように、言語と論理を哲学の軸にしてしまうと、価値と倫理については語れなくなってしまうのです。

だからこの問題を取り組むには、まったく新しい方法が必要だった。ニーチェとフッサールだけがその可能性を示していた、というのが私の考えです。

――現代の状況では、さまざまな「哲学的言説」が島宇宙のようにポツン、ポツンと孤立してあるだけで相互間の議論が成り立たない。だから私が、まず共通の議論の土台となるテーブルを、あるいは土俵を作りましたよ、ということでしょうか?

そういうことです。現代思想では、ハイデガーとレヴィナスが、人間の倫理を問題にしました。

でも、結局二人とも最後には、検証することのできない「物語」を立てる「形而上学」になってしまった。

またこの二人の思想を拠り所とするポストモダン思想も、マルクス主義のドグマ主義への対抗策として相対主義という最も悪い方法を選んでしまった。そのために形而上学と相対主義の対立という不毛な構造に落ち込んでしまった。

ポストモダン思想の言説は、結局のところ、根拠なきロマンが難解な理説で飾りたてられているにすぎません。

――そういう意味で、ここから新しい哲学が始まるという、まぁ言うなれば大それたことをあえて言う(笑)。

大それた言い方に聞こえるかもしれませんが、自分では、この「欲望論哲学」は、哲学の根本の立て直しなのだと考えています。そうでなければ、そもそも新しい哲学を立てる意味がない。

 

「20世紀の哲学は哲学の墓場です」

近代哲学の祖、デカルトの意図もそうでした。それまでは哲学の名の下に、実際には「形而上学」しか存在しなかったところにデカルトは、哲学の方法を根本から立て直そうとしたわけです。

ポストモダン思想は、形而上学と哲学の区別ができず、これまでの哲学の方法はみな形而上学なので禁じ手にすべきだと言いました。

いっぽう英米系の言語哲学は、はじめの出発点は、近代哲学は形而上学だから、それを克服するために論理主義によって厳密に言語と認識を基礎づけるべき、ということだったはずなのに、それを追いつめているうちに、逆にやはり相対主義を育ててしまった。

反マルクス主義からはポストモダンの相対主義が、反観念論哲学からは分析哲学の相対主義が出てきた。