# 哲学 # フッサール # 竹田青嗣

これからは哲学の時代——根拠なき時代、ほんとうの土台を築くには?

『欲望論』の著者、竹田青嗣氏に聞く①
竹田 青嗣 プロフィール

現代思想を読む上でも、この点を抑えておくことが大事です。

なぜなら現代思想は、いま言ったことを「言語問題」として取り扱っているだけで、問題としてはまったく同じだからです。

近代哲学の問題の構図は「主観」と「客観」との一致ですが、言語論的転回と言われる現代思想では、その間に「言語」が入っているにすぎません。

要するに、「世界の正しい認識は可能か」、という問いが、「言語はその認識を正しく表現できるか」、という問いに置き換えられているだけなんです。どんな方法を採ればこの問いにアクセスできるのか、については現代思想もまったく答えを出せていない。

でもそういうことも、認識問題が問題なのだということが分からなければ、まったく理解できません。

 

『欲望論』のはじまり

――フッサールに、言うなればたまたまぶち当たったおかげで哲学の「感じ」がわかったと?

そうですね。でも哲学の主題はもちろん認識問題だけではありません。その背後に存在する、さらに重要な問題は「価値」の問題です。

でも、少なくとも認識問題の核心が理解できると、哲学の原理としてニーチェとフッサールがこの問題を最も先まで進めたことが分かる。

ニーチェは、哲学は「価値の原理論」でなければだめだと言ました。これはきわめて正しい。認識上の信念対立もイデオロギー的なコンフリクトも、つまるところ価値の問題から生じるからです。

とは言え、もういっぽうのフッサールにはエロス論がぜんぜんないんですね(笑)、認識問題一辺倒で。現象学は認識の原理論としては、たしかに難問を解明したけれど、エロスの問題、すなわち「力」を扱う方法がないために、その先に進むことができなかった。

それで、フッサールの現象学の方法を、ニーチェが示した力やエロスの問題を軸にして編み変えれば、新しい哲学原理になるのではないかと考えた。そういう感触は、40過ぎに哲学に入ろうとしたときにはすでに持っていました。

だから、欲望論の出発点がどこかと言えば、やはりニーチェとフッサールです。

――図式的に言うと、最初から、フッサールにニーチェを組み込めば何かできるんじゃないか、みたいな見通しができていた?

そういうことです。フッサールの認識論をニーチェの力相関性の観点から再編成すれば、欲望相関性という概念が出てくるのではないか、と。

今回の本は、その予感をたよりに書き進んでいきましたが、やっぱり実際に書いてみないと、うまく行くかどうかはわからなかった。

実際、途中ではかなり苦労したけれど、今の時点では、この二つは新しい哲学原理として再生されたかなと思っています。

(第2回につづく)