長崎市公式観光サイト「あっと!ながさき」(https://www.at-nagasaki.jp/world-heritage/)より

島原の乱は「潜伏キリシタン」を追い込んだ“宗教戦争”だったのか?

世界遺産登録の機会に考えたいこと

「立ち帰り」キリシタンによる“宗教戦争”

島原の乱に興味をもったのは十数年前のことである。なんといっても驚かされたのは、一揆蜂起した人々が行った、キリシタンに「立ち帰る」行動である。

迫害の中で棄教していた信徒が信仰を取り戻すことだが、単なる内面の信仰回復ではない。檀那寺の住職や藩の役人の前で再改宗を公然と宣言し、寺院・神社を放火・破壊し、僧侶や神職など「異教徒」を殺害し、キリシタン信仰を他人に強制し、承諾しなければ武力で攻撃を加えるのである。

「立ち帰り」キリシタンと対峙した人々は、彼らに従うか敵対ないし逃亡するか、のどちらかを選ばざるを得なかったに違いない。

自身の信仰を単に内面の問題ではなく、公然たる政治的・社会的立場の問題とせざるを得ない状況に追い込まれたはずであり、宗教戦争といってもよい状況が現出したはずである。そのわりには信仰の問題に注目した研究が、深谷克己氏の「殉教の論理と蜂起の論理」(『思想』五六五)以外殆ど見当たらないことが不思議であった。

さらに「立ち帰り」キリシタンによる信仰強制を肯んぜず、藩方に味方した人々も多かったのに、彼らの信仰は問題にもされず、専らキリシタン信仰のみ視野に置かれているのも不思議であった。

島原の乱の、宗教に関わる動向は殆ど関心をもたれていない、との思いから、『島原の乱──キリシタン信仰と武装蜂起』を中央公論新社から出版したのが十三年前であった。この度、講談社学術文庫の編集部からお話をいただき、原本版元の承諾を得て、同じタイトルのもとにもう一度世に出ることになった。

潜伏キリシタンは「異教徒」と対立していたのか

最初の出版以後の島原の乱に関する研究状況については「学術文庫版へのあとがき」を参照いただきたい。筆者自身の変化についていえば、潜伏キリシタンについてほんの少しだが学んだことである。

潜伏キリシタンは、長い禁教の時代を経て日本的・民俗的なものに変質しているとの有力な見解に漠然と従っていたのであるが、二〇一二年暮、長崎市外海地域の潜伏キリシタンの遺跡や信仰の現況を、大石一久氏(現・大浦天主堂キリシタン博物館副館長)始め長崎外海キリシタン研究会の方々のご案内により見学させていただき、本年世界文化遺産に登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に関わる地域の方々のお話を伺う機会に恵まれた。

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垣内地区の墓地(長崎市多以良町)では十七世紀前期から、いわゆる「キリシタン墓」とされる様式の墓碑が、近世を通じて建立されてきたことを知った。何よりも明治以降もカトリックに復帰せず、先祖から受け継いだキリシタン信仰を遵守している方々を知った。

この見学で、幕府と藩の弾圧によりキリシタン信仰が滅びたとみていたのは安易な思い込みだったのではないか、とふと感じた。