中学教師になった野間清治が、那覇で通い詰めた「夜の社交場」

大衆は神である(15)

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業者・野間清治の波乱の人生と、日本の出版業界の黎明を描き出す大河連載「大衆は神である」。

奔放・豪快でありながら、どこか憎めない人柄で、周囲の人々を惹きつけてきた清治。起業までの軌跡を追う第二部では、講談社創立の原点となった雑誌『雄弁』創刊前後を描く。

東京帝大内に開設された臨時教員養成所を修了した清治は、教官に「いちばん俸給のいいところへやってください」と言ってのけ、明治37年(1904)、当時もっとも月給が高かった沖縄県立中学校へ赴任したのだった。

第二章 『雄弁』創刊前夜──野間清治の沖縄時代 ⑶

友人への手紙で自画自賛

沖縄に着任してから3ヵ月半後の7月下旬、清治は臨時教員養成所の同期生・宮本慶一郎(栃木県の真岡(もおか)中学に赴任)あてに手紙を書き、自分の評判の良さを思う存分吹聴している。

〈(前略)学校にては撃剣(=剣道)非常に盛に候。小生も撃剣は極(ごく)好き故、毎日致し候。然る所小生程強いものは無之(これなく)、生徒悉く喜び居候(おりそうろう)。

教室にて時々八犬伝などをやらかし申し候。生徒非常によき先生と思ひ居る次第に候。

校友会、級会など、最早幾度も有之候(これありそうろう)。其度屢々(しばしば)贅弁(ぜいべん)を喋々(ちょうちょう)致し居候。

 尚自惚(なおうぬぼれ)二三

校長評して曰く、

 あんな人物がくるとは思はなかつた。どうしてなかなかの才物だ。拙者も大々満足だ云々。

女教師(小学校や高等女学校や女子職業学校の)評して曰く、

一寸(ちょっと)あなた、此度中学にいらつしやつた野間先生を御存じですか。

いいえ、

まあさうですか。いつか御覧遊ばせ。三年も寿命が延びますよ〉

女教師の話が事実かどうかともかく、沖縄時代の清治の写真を見ると、引き締まった体つきの美丈夫である。女性に相当もてたにちがいない。

 

風月楼

手紙のつづきを御覧いただきたい。

〈不平二三

当地にては豚 一斤十五銭 但し一斤は百六十匁 牛一斤十四銭 卵一個八りん(厘)より一銭迄 牛乳三銭 一合といつても一合半位あります。

ところが此外(このほか)には喰ふものがない。野菜類も甚しく少く候。されば日々之等(これら)のみ膳に載する訳、始めの中(うち)は大喜び、中頃では喜びもせず悲しみもせず、処(ところ)が今や饜(あ)き果てて不平に御座候。首里には料理無之候。極下等なのはある由なれども、小生等の行く様なのは皆無に御座候。そこで時々那覇にまゐり候。那覇には上等のやつ三四軒以上、曰く風月楼、曰く玉川楼、曰くいろは楼、曰く楽衛豚館、曰く何、曰く何。就中(なかんずく)風月よろしく候。

此処(ここ)では西洋料理も出来候。芸者十二人程、酌婦七八名も有之候。

小生固(もと)より不骨者、女子はきらひなたちに候。唯料理をやりたいばかりに、二三日隔てては車を飛ばして此所に遊び候処、大分之が評判に相成り、段々人々に疑はれ、友人よりは忠告を受け、今では之へも参れぬ始末、少しく不平に候(後略)〉