防護服を着た子供像「サン・チャイルド」は、なぜ福島で炎上したのか

「被災地と現代美術」がもつ複雑な問題
林 智裕 プロフィール

2011年からの使者

たとえそのような状況であっても、震災が起きた日から今日に至るまで、他の地域と同様に、福島に生きる人たちも日々の生活を送ってきました。

日常とは小さな決断の積み重ねですから、目の前の現実に対して「まだわからない」などと判断や態度を先延ばしにはできず、常に何らかの決断を迫られ続けます。この場に暮らしていても平気なのか。食べ物は安全なのか。避難するリスクと留まるリスクではどちらがより深刻なのか…。

結論を言えば、この事故で放射線被曝そのものを原因とした健康被害は起こりませんでした。福島に暮らす人々が実際に被曝した量は、内部・外部ともに世界の平均的な値と比べても高くなく、世界中で核実験が行われていた1960年代の日本人の平均的な被曝量よりもずっと小さいということが、国内外や官民問わず、さまざまな実測調査からすでに明らかになっています。

 

一方で、避難に伴う生活環境の変化による健康状態の悪化や、震災関連死は増えました。避難を巡る考え方の違いを発端とした離婚が起こったケースもあります。もちろん、中には避難によって安心感や安定が得られた方もいらっしゃるでしょうが、少なくともデータの上では、無理に避難することは、もとの生活圏に留まるよりも総じてリスクが高かったといえるのです。

ただし、これはあくまでも結果論です。震災発生当時、多くの人が明日をも知れない大きな不安に包まれていました。それから必死で学び、悩み、沢山の決断を繰り返す中で、県民は多かれ少なかれ傷付いてきました。

あの重く苦しい2011年当時の空気感から7年以上の時間と苦難を越え、福島では平穏な日常を取り戻す住民が増えてきましたが、そこに至るまでの道のりや、震災の記憶が大きな痛みとして心に刻まれている人も少なくありません。

そんなある日、大勢の人たちが平穏な日常を暮らす福島駅前に突然現れたのが、2011年からやってきた「サン・チャイルド」でした。

「放射能」の警告マークやガイガーカウンターを連想させるような、黄色い警告色の放射能防護服に身を包んだ子ども。重苦しいヘルメットを脱ぎ、放射線の脅威から解放されたような姿は確かに、「放射線に対する不安と絶望感の中で、それでも見出した未来への一抹の希望」であったのかもしれません。

2011年の作品ですから、その頃の感覚が強く表現されているのは当然のことです。作者であるヤノベ氏に悪意があったとは、少なくとも私は全く捉えていません。

しかし、人々が日常的な通勤や通学、ショッピングに訪れる福島駅前の、しかも子ども達のための施設の入り口に、突如として現れた6.2mの巨大な「2011年からの使者」に向けられたのは、歓迎の声ばかりではありませんでした。

福島市の「こむこむ館」に設置された「サン・チャイルド」(筆者が夜間に撮影)

人によっては、乗り越えたはずの被災の記憶へと一気に引き戻される感覚を覚えたり、津波や原発事故の映像を日常的に見せられるような体験になってしまっている恐れがあり、ケアの専門家からも懸念が寄せられています。また、その巨大さと風貌から、小さな子どもが怖がって施設を利用出来なくなったケースも発生しています。

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