東京五輪ボランティアをやっぱり「やりがい搾取」と言いたくなるワケ

過去の「動員」を思い出す…
仁平 典宏 プロフィール

「民度の高い国民が支える大会」という物語

アトランタ五輪の失敗を受けて、国際オリンピック委員会(IOC)は五輪の運営に行政の関与を求めるようになった。今はボランティアの募集、選考、研修を公的機関が一定のコストをかけて行う。ボランティアの研修不足が懸念された大会(アトランタ五輪やシドニー五輪など)では多くの問題が起きてしまった。

ボランティアに支払うお金がかからないとしても、彼ら・彼女らが円滑に働けるようにするためには、責任を持って十分なお金と時間をかけて環境を整えなければならない。その意味では「安上がり」では決してない。

 

だから五輪の支出を抑えるためには、ボランティアを多く使うのではなく、逆に数を減らすのが普通だ。リオデジャネイロや平昌の大会がそれに該当する。この意味で東京五輪はコンパクトな五輪という理念から逆行している。IOCは東京五輪のコスト削減のために、ボランティア数を見直すことを求めているが、これは数が過剰だとIOCが見ているということでもある。

それにもかかわらず国がボランティアの多さにこだわるのは、「民度の高い国民が自発的に支える大会」という物語を求めるからだろう。例えば北京五輪は、過去最多の大会ボランティア7.5万人に加え、都市ボランティアを実に40万人以上動員し、「ボランティアが多すぎて逆に邪魔」という欧米メディアの揶揄もどこ吹く風で、大国らしさを演出してみせた。

東京五輪では早い時期から大会ボランティア8万人という数字を掲げてきたが、「過去最多」という称号を手にしたいからのようにも思える。

東京五輪開催を2年後に控え、イベントが行われた(photo by gettyimages)

しかし五輪は、民度の高い国民の見本市ではない。そもそも普通は海外からも多くの応募ある。五輪の理念に共感したり、単に異国で様々な国の人と「祭り」を楽しみたいといった理由からだ。アテネ五輪のときは、12万人の応募のうち4万人が海外からの申し込みだった。

東京五輪では、ボランティアを「おもてなし=日本の伝統」という枠に閉じ込めたいようだが、それがいかに内向きな議論かわかる。個人の思いや動きは、たえずこうした国の思惑からズレる可能性を持つ。以下では、ボランティアの報酬の問題を個人の側から整理してみたい。