老舗和菓子・たねやを救った「バームクーヘン革命」の秘密

これが本物の近江八幡のバームクーヘンです
山本 昌仁 プロフィール

バームクーヘン革命

ドイツ語でバームクーヘンは「木の菓子」という意味。木の年輪のような層になっていることからのネーミングですが、本場ドイツのものはけっこうみっしり詰まっていて、ガチガチに硬い。日保ちさせるためです。だから、みんなコーヒーやブランデーに浸して食べています。

それに対して、クラブハリエのバームクーヘンは日本人の嗜好に合わせてフワッと仕上げてある。「こんなん邪道や。本物と違う」と批判されたこともあるのですが、「いえ、これが本物の近江八幡のバームクーヘンです」と答えていました。むしろ、その柔らかさを積極的にアピールしていこうと、「ゆらゆらバーム」と名づけ、お客様の前で揺らしたりしました。

さすがに丸かじりしていただくことはできなかったものの、バームクーヘンの丸太をお客様の目の前でカットしてお渡しした。店舗まで丸太で運べば、そのぶん乾燥を防げます。よりしっとりした風味になる。

ちなみに、その場で焼くほうもやれば、さらに職人しか知らない味に近づくのですが、スペースの問題でデパートでは難しい。何店舗か挑戦はしてみたのですが、現在、売場で焼いているのは、敷地に余裕のあるラコリーナと日本橋三越店だけです。

その場でカットするのは、ライブ感を楽しんでいただく演出です。工場を売場にする。ショップ・イン・ファクトリーという考え方です。その後、多くの店舗で取り入れるようになりましたが、これが先駆けです。

バームクーヘン革命を起こしたクラブハリエ梅田阪神店

阪神百貨店の社長には「1週間ください」と言いましたが、結果が出るのにそんなに必要ありませんでした。食品売場で売上トップになるには1年かかりましたが、オープン当初から話題になったし、メディアでもたくさん取り上げていただいた。

メディアは「バームクーヘン革命」と書きたてましたが、たねやグループにとっては、それ以上の意味がありました。ずっと赤字だった洋菓子のジャンルがついに独り立ちするきっかけになったからです。現在、洋菓子の売上は会社全体の4.5割と、和菓子を逆転する寸前まできています。

 

2000年ぐらいから、どこのデパートの菓子売場でも、洋菓子が和菓子を圧倒していきます。一等地はだいたい洋菓子が占拠し、和菓子は隅に追いやられていった。菓子の世界でそうした地殻変動が起こりつつあるとき、クラブハリエが急成長を始めたのですから、ギリギリその波に乗れた。本当にラッキーでした。

この頃、たねやにとって大きな出来事がありました。2000年、父が僧帽弁閉鎖不全症で心臓の大手術を受けたのです。手術は成功したのですが、仕事人間ですから、一般病棟に移ると、もう会社に戻りたがる。勝手に院内を歩き回って昏倒。再び大手術です。のどに通していた管を自分で引き抜いたこともあり、声が出にくくなってしまった。

父が復帰を急いだのは理由があります。2001年初頭に守山玻璃絵館のオープンを控えていたからです。直営店で、しかも、イングリッシュガーデンと喫茶スペース、工場まで備えた大型の路面店です。非常に大きな出店計画だった。

守山玻璃絵館

銀行からも協力会社からも「出店は延期したほうがええんと違うか?」との声が上がりました。当時の幹部は父のスタッフばかりでしたから、社内も同意見だった。たねやが父のワンマン会社であることはわかっていましたが、ここまで不安がられることにショックを受けました。

自分はいままで、息子というだけで相手にしてもらっていたのだと痛感しました。私自身の信用なんかなかった。まあ、祖父が急死したときも「たねやは潰れる」と噂されて、父は悔しい思いをしたようですから、世代交代を果たすために一度は通らなければいけない道なのでしょう。

そこで、もう腹をくくりました。父の回復は順調なので、仮に失敗しても、まだ挽回がきく。それなら、私と弟の思うような勝負をしてみようと。「社長は入院してはるから、文句を言いに来れへんやろ」ということです。

このとき守山玻璃絵館で大人気になったのが、ケーキバイキング。90分制で、ケーキの種類は毎月変えます。ケーキバイキング自体はすでにホテルなどで始めていたので、滋賀県初ではありません。でも、毎日やって、ケーキが月替わりというのは、新しい試みだったと思います。

ショップ・イン・ファクトリーを路面店で展開したのも、守山玻璃絵館が初です。職人がケーキを作る姿をながめながら、できたてを味わう。菓子はどんなものでも、作りたてがいちばんおいしいのです。梅田阪神店からの流れでバームクーヘンのカット販売もやりましたが、これも大評判になりました。

結果的に守山玻璃絵館は大成功。父も胸をなでおろしたと思います。私と弟にとっても、親が元気なうちに大胆に勝負するチャンスをもらえて、本当にラッキーでした。世代交代を後押しする風が吹いた。

小さな組織(クラブハリエ)を差配する権限を与えてもらって、それなりに結果を出しつつありました。バームクーヘン専門店の2号店も、守山玻璃絵館の2ヵ月後には日本橋三越にオープンすることが決まっていた。

それに加えて、和菓子・洋菓子の両方を揃えた路面店である守山玻璃絵館を大成功させたのですから、父も少しは認めてくれたはずです。

2002年に横浜髙島屋に出したクラブハリエは、それまでとは大きな違いがありました。それまで横浜髙島屋にたねやは出店したことがなかったのです。たねやの看板に頼った出店を続けてきましたから、クラブハリエだけでの出店は画期的でした。このあたりにブランドを確立できたのだと思います。