甲子園で力投する新谷博投手。同期には、早実の荒木大輔、池田の畠山準がいる

これまで誰も達成していない完全試合に最も近づいた男 新谷博の伝説

甲子園レジェンドインタビュー 第5回
2018年の第100回全国高校野球選手権大会は、大阪桐蔭の優勝、史上初の2度めの春夏連覇という結果となったが、この100回、104年にわたる夏の甲子園の歴史の中で、今回も、完全試合を達成した投手は出なかった。ノーヒットノーランは、戦前は、海草中(和歌山県)の島清一が準決勝、決勝連続で、戦後は、松坂大輔(横浜)が決勝で達成したほか、22人(23回)が記録しているが、1人の走者の出さない完全試合は達成した投手は誰もいない。今から36年前、そんな大記録に、9回2死、パーフェクト達成まであと一人というところまで肉薄した投手がいた。
(※選抜では、1978年に、前橋の松本稔が対比叡山戦で、1994年には、金沢の中野真博が対江の川〈現・石見智翠館〉で達成している)

完全試合をやれば、2勝分にしてくれるわけじゃない

「何にも知らない田舎者でしたよ。甲子園に出るっていうことのすごさもぜんぜんわかってませんでした。だから、あんなことができたのかもしれません」

 

1982年、第64回夏の甲子園大会。佐賀商のエースとして出場した新谷博さんは自嘲気味に言う。確かに、それまでの佐賀県代表は、甲子園で結果を残すことはできずにいた。のちに、佐賀商(1994年)と佐賀北(2007年)が全国制覇を成し遂げるが、1970年代までは初戦突破も難しい弱小県だったのだ。

余談だが、佐賀商の先輩には、プロ野球で戦前最後のノーヒットノーランを達成した石丸進一がいる。プロ野球選手で唯一特攻戦死している。特攻出撃前に滑走路で同僚とキャッチボールをして、そのグラブを、報道部員だった作家・山岡荘八に放り、「これで思い残すことはない。さようなら」と言い残して、機上の人となったという。

「当時、監督が、『甲子園にはコールドがないから、ぶざまに負けないことだけを考えていた。勝つことより恥をかかないことを考えて甲子園に行っていた。監督になって初めて勝とうと思って甲子園に行ったのが、おまえたちの代だった』と言ってましたからね」

そんな佐賀商が抽選で引き当てた初戦の相手が、青森県代表の木造高校だった。当時、関東から西の高校が、初戦の相手に東北代表を引き当てれば、大喜びしてた時代。しかも、初出場である。

「『よし、勝った!」と思いました。県予選も自責点ゼロで来ていたし、打たれるかもという不安は一切なく、相手を飲んでかかってましたね」

金属バットが導入されてまだ9年めのこの大会。優勝する池田が、筋トレでパワーアップして打ちまくる野球で甲子園に革命を起こすまでは、プロに進むような好投手と対戦すれば、点を取るのは至難の技だったのだ。

「まだ、投手有利な時代でしたね。事前に対戦相手の情報を集めるなんてこともまだなくて、ビデオもまだ普及していないから、対戦する投手がどんな球を投げるかも、試合になってみないとわからなかったですから」

そして、8月8日の第一試合、佐賀商対木造の一回戦がプレイボールとなった。初回に捕手・田中孝尚の3ランで先行した佐賀商が5回までに7点をリードする。一方の木造は、6回を終えても1人のランナーも出すことができない。

「打たれていないのはずっとわかっていました。だって、パーフェクトで3人ずつ抑えていけば、1回から、先頭バッターが、1番、4番、7番の繰り返しですからね。7回にはまた1番打者から始まるんですよ」

183センチの長身から、伸びのあるストレート、カーブ、スライダーを駆使して、木造打線を翻弄した

記録のかかった展開に緊張することはなかったのだろうか。

「ぜんぜん緊張しませんでしたね。自分が、パーフェクトやノーヒットノーランに対して価値を置いてなかったからでしょうね。チームにとって大事なのは勝つこと。投手にとって大事なのは相手をゼロに抑えることです。その抑え方はどうでもいいんです。たくさん三振をとったり、完全試合をやれば、2勝分にしてくれるわけじゃない。
野球は、いかに相手よりも多くホームを踏むかを競うゲームですから、いくらヒットを打たれようが、ランナーを出そうが、ホームを踏ませなければいいんです」

回を追うごとに、球場はヒートアップして行ったが、本人はまったく蚊帳の外にいたようだ。

「6回の途中から球場がざわめきだしたんですよ。パーフェクトをやっているのはわかってましたが、すごいことをやっているという感覚がないので、『この人たちは何を騒いでいるんだろう』と不思議だったんです。

それで、『ああ、次の試合に出る優勝候補の池田が球場入りしたから騒いでいるのか』とトンチンカンなことを考えてました」

そして、試合は9回を迎える。