なぜ日本人は「コミュニケーション能力至上主義」に陥ったのか

出口なき〈能力不安〉に苛まれて…
中村 高康 プロフィール

古いものでも、根拠がなくとも、とりあえず何らかの能力を「新しい能力」と唱えておけば、確かに〈能力不安〉からは一時的には解放されるのである。

そうして「これから必要になる、新しい能力は何だ?」「コミュニケーション能力だ!」という、〈能力不安〉を一時的に鎮めてくれるような言説が繰り返し提示され、既定路線になっていった――というのが私の見方である。

 

〈能力不安〉に振り回されないために

結果として、私たちはコミュニケーション能力だけでなく、新しい時代に向けた様々なアヤシイ能力論につきあわされる羽目に陥っている。目立ったところでは、今まさに進められている、大学入試改革がその典型だ。

「知識の暗記・再生」を非難し、「生きる力」「学力の3要素」「英語4技能」等々を「これからの時代に求められる新しい学力」として重視する改革がゴリ押しされている。しかしそのどれもが、言い回しこそ新しそうだが、その内実は抽象的で測定が難しい上に、昔からある陳腐な能力評価基準ばかりである。

このような動きこそ、まさに、既存の能力評価を無限に疑い続ける「メリトクラシーの再帰性」が、現実の政策に影響を与えた例といえる。「未来に必要な能力」を予見し先取りするのではなく(そんな予言めいたことは、そもそも不可能だと個人的には思うが)、要するに「評価基準を見直し続ける」こと自体が目的になってしまっているのだ。

現代は将来の見通しが立ちづらい時代だ。いったいどのような能力を身につければ食ベていけるのか、成功できるのか、という〈能力不安〉に私たちは常に苛まれている。そして、その状況に耐えきれず、どこかで聞いたような「新しい能力」を引っ張り出してきてはそれに飛びつく、ということを繰り返している。

そして、それが高い確率で、非現実的で不可思議な政策の実現に結びついてしまう。これはもはや能力主義の「進展」ではなく、能力主義の「暴走」と呼ぶべき事態である(中村高康『暴走する能力主義』ちくま新書、2018年)。

暴走する能力主義に振り回されずに、どこまで冷静さを保ち続けることができるか。これが今の私たちに突きつけられた最大の課題なのである。