なぜ日本人は「コミュニケーション能力至上主義」に陥ったのか

出口なき〈能力不安〉に苛まれて…
中村 高康 プロフィール

「あの人が殿様でいいの?」と言えなかった時代

ただし、このような能力主義の「再帰性」――要するに、「今ある待遇や社会的地位の違いは、ほんとうに正しい能力評価に基づくものなのか」という疑問が生まれる余地――は、かつては、時代ごとに様々なメカニズムによって抑制されていた。

たとえば、前近代社会であれば、強固な身分制がそれにあたる。前近代社会においても能力を評価する視線はないわけではなかったが、前近代的身分秩序がそれを強力に抑制していた。「あの殿様は、ほんとうに殿様でいいの?」などとは、少なくとも公衆の面前では誰も言えなかったのである。

また、近代社会の前半においても、再帰性を抑制するメカニズムは一定程度うまく作動していた。学歴による地位配分秩序である。

近代的公教育制度が導入されてはいたものの、現代に比べて大学進学率がずっと低かった時代には、高学歴者であるということは、「あの人は大学出だから、きっと我々庶民にはわからない難しいことを知っているのでしょう」といった形で、能力主義秩序への疑問を抑止する力となっていた。

しかし、後期近代、つまり私たちが生きる現代社会においては、高学歴化の進行と情報化の進展によって、そうした再帰性を抑制する「重石(おもし)」は取り除かれてしまった。

高学歴社会に生きる私たちは、本当に能力が高い人にだけ「大学卒」の肩書きが与えられるものではないことをすでに知ってしまっている。情報化社会に生きることによって、必要な知識や情報を学校以外から獲得することにもすっかり慣れてしまっている。

そのような状況下においては、抑え込まれていたはずの「再帰性」が強力に作動するようになり、比較的安定していた学歴・学力・知識などの能力指標さえも、激しい問い直しを受けることになる。これこそが、後期近代における能力論議の病的特質なのである。

 

コミュニケーション能力礼賛の真相

コミュニケーション能力をめぐる議論は、学歴のような指標にもはや全面的にはすがれなくなった一方で、その代案を容易に見つけることもできない、現代人の能力に対する不安定な心理(私はこれを〈能力不安〉と呼んでいる)を象徴する言説にみえる。

なぜなら、さきほど論じたように、「コミュニケーション能力」という概念は、昔からある陳腐な能力にすぎないからである。

それにもかかわらず、人材開発や教育政策の議論においては、しばしば「学歴や知識に頼る能力観はもう古いのであって、これからの時代は、それらとは違う新しい能力評価のあり方が必要だ」という強い仮定が根拠もなく置かれる。

そして、「では、どんな新しい能力が必要か」を考えてみるのだが、妙案は簡単には思いつかない。それでも、例えば政府の審議会などでは、最後に必ずなんらかの代案を出し、答申にまとめなければならない。

こうして無理やり答えをひねり出そうとした結果、いつでも、どこでも、誰にでも当てはめることができる、最大公約数的で陳腐な能力を、あたかも「新しい時代に求められる能力」であるかのように見せかけて、その場を丸くおさめるようなことを繰り返してきた――それが、「コミュニケーション能力」を称揚する風潮が生まれた真相なのではないか。