なぜ日本人は「コミュニケーション能力至上主義」に陥ったのか

出口なき〈能力不安〉に苛まれて…
中村 高康 プロフィール

企業の採用人事などでしばしば指摘される「人物重視」という言葉がある。「これまでは受験エリートや知識を詰め込んだだけのガリ勉ばかり採用してきたが、これからは人間性も評価していこう」というステレオタイプな含意がこの言葉の裏にはある。企業がこうしたことを声高に言い始めたのは、ごく最近の話だと思う人も多いだろう。

しかし、実はすでに100年近く前の昭和初期には、多くの企業が「人物重視」のスローガンを掲げて採用人事を行なっていた(福井康貴『歴史のなかの大卒労働市場』勁草書房、2016年)。当時はコミュニケーション能力という言葉こそ使わなかったが、人材の評価基準としてイメージされているものが、曖昧で測定しにくい人間関係的な力だという意味では、ほとんど違いはない。

このように考えれば、「コミュニケーション能力」や「人間力」、「社会人基礎力」なる抽象的なものを、面接官などが客観的に測定・把握できる「新しい時代に必要な能力」と見立てて、大げさに囃し立てることの粗雑さは明らかである。私たちは本来、こうした新しい能力とされるものの「新しさ」をもっと疑ってかかる必要がある。

 

能力主義の「再帰性」とは何か

では、なぜ近年「コミュニケーション能力」という、あまりに抽象的な能力指標を神輿に担ぐ議論が、これほどまでに盛り上がってしまうのだろうか。

その原因には、能力主義にもともと組み込まれている自己批判的な性格があるのではないか、と私は思っている。

私たちの社会は(実態がどうかはひとまず措いて)、家柄や性別といった動かしようのない先天的要素ではなく、能力によって人を評価する「能力主義」で動いているとされる。だが、コミュニケーション能力に限らず、そのほかの様々な能力――例えば仕事の能力、学力、体力などについても、そもそも本当に「客観的に測る」ことは可能なのだろうか。

誰が本当にそのポストに適した人材なのか?とか、誰が本当に学力が高いか?などということは、もともと厳密に測る方法はないのである。例えば、「ある会社の開発部のA氏とB氏では、どちらがより能力が高いのか」とか、「物理学者のC氏とD氏では、どちらがより優れているのか」といった問いに、厳密な答えを出すことはできない。

「能力主義」という制度そのものに、こうした曖昧さがどうしても伴う以上は、どのような能力を基準にして人を選抜しても、「その基準は本当に正しかったのか?」という形での疑念が事後的に生じる余地が必ず(﹅﹅)残ってしまう。

つまり、能力主義は、そもそも原理的に、自らが生み出した結果や秩序を問い直してしまう性質をはじめから持っていると考えるべきなのだ。

私はこうした能力主義の性質を「メリトクラシーの再帰性」と呼んできた。「メリトクラシー」とは、社会科学でほぼ「能力主義」と同じ意味で使われる用語であり、「再帰性」とは、自らを振り返って事後的に問い直す性質のことである。