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なぜ日本人は「コミュニケーション能力至上主義」に陥ったのか

出口なき〈能力不安〉に苛まれて…

「コミュ力」をめぐる根本的な疑問

現代においては、「コミュニケーション能力」がかつてないほど重要になっていると感じている方が多いと思う。実際問題として、近年多くの企業が新卒求職者に求める能力として挙げてきたのが、まさにコミュニケーション能力なのであった。

経団連の「2017年度 新卒採用に関するアンケート調査」の結果によれば、実に82.0%の企業がコミュニケーション能力を挙げたという。そしてこの傾向はここ10年ほぼ変わっていない。全20項目のなかで「コミュニケーション能力」が1位となったのは15年連続である。

インターネット上で「コミュニケーション能力」を検索してみると、多くのコミュニケーション能力向上ハウツーサイトに容易にたどり着くことができ、なかには「コミュニケーション能力認定講座」なるものまである。もはやコミュニケーション能力は現代人に求められる必須のスキルであるかのようである。

しかし、私はこうした風潮に違和感がある。とりわけ、コミュニケーション能力こそが「新しい時代に求められる能力だ」として、財界や教育現場で称揚されることへの違和感は大きい。

 

というのも、コミュニケーション能力がこれほど称揚される理由には、本当は二つの可能性があるはずだからである。

一つは言うまでもなく、コミュニケーション能力の重要性が実際に社会で高まっている可能性である。こちらの場合は現実と言説が整合しているのであるから、私の違和感など無意味だ。

しかしもう一つ、まったく別の可能性がありうる。それは、現実のコミュニケーション能力の重要性が実際に増しているかどうかとは関係なく(●●●●)、「コミュニケーション能力が重要だ」と論じること自体の重要性が高まっている可能性である。

結論を先にいえば、私は後者の立場を取る。その理由をこれから説明したいと思うが、その前提として、

コミュニケーション能力を客観的に測ることはできるのか

コミュニケーション能力が重視されるようになったのは、本当に最近のことなのか

というふたつの論点について、まずは押さえておきたい。

100年前から企業は「人物重視」

コミュニケーション能力を「能力」として扱うことに対する根源的批判が、実はある。コミュニケーションとは人と人との関係性において本来立ち現れるものであるのに、それを個人に内在する能力として扱うことにそもそも無理がある、というのである(貴戸理恵『「コミュニケーション能力がない」と悩むまえに』岩波書店、2011年)。

このように考えるならば、コミュニケーション能力は、個人の特性としては本来測りようがないもの、ということになる。

例えば、A君とは話が合うが、Bさんとは話が続かない、といったことは誰しもが経験するものである。A君と話しているときには、コミュニケーション能力が高いように見えるし、Bさんといるところを評価されれば、コミュニケーション能力が低く見えるであろう。確かにこれでは測定は難しい。

でも百歩ゆずって、仮に「コミュニケーション能力は客観的に測定できる」としてみよう。それでも私は、新しい時代に求められる中核的能力としてコミュニケーション能力を称揚することを躊躇する。

なぜなら、コミュニケーション能力に似た能力評価の基準を、私たちの社会はかなり昔からすでに十分利用してきたからである。