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京成線・千住大橋がいま高い評価を誇っているシンプルな理由

一見ブランドに欠けてみえるけれど…

沿線文化はなぜ生まれるのか

前回(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57102)示した首都圏50キロ圏の高齢化進行別チャートを見ると、ある事実に気づく。同心円状の分布になっているのは当たり前として、同時に放射状の分布傾向を併せ持っていることだ。

これを解くカギは、おそらく鉄道沿線と考えて間違いないだろう。

そこで今回は、鉄道沿線と高齢化について考えてみたい。 

 

沿線文化は確かに存在する。例えば筆者のふるさとである兵庫県の阪神間では、わずか数㎞を隔てて並行する阪神と阪急(神戸線)で、沿線文化が明らかに異なっている。

この差は、元をたどれば鉄道路線の設定を巡るビジネス戦略の違いによって生み出されたものだ。阪神電車が開通するのは1905(明治38)年。阪急神戸線の開通は1920(大正9)年。この15年の間に、鉄道整備のビジネスモデルにはドラスティックな変化が起きた。

鉄道とは、本来A地点とB地点を結ぶものである。しかし、それだけでは商売は成立しない。A~B間の沿線からどれだけの需要を取り込むことができるかによって勝負が分かれてくる。

大阪というA地点と神戸というB地点を結ぶにあたり、阪神電車は乗降客の需要が見込める既存の集積地を結んでいった。江戸時代から地域の中心地であった旧尼崎城下、当地の地場産業である灘五郷、十日戎の開門神事で有名な西宮戎神社などだ。

これに対して阪急は、明治末~大正初めに同社の創始者である小林一三が生み出した、畑の中に線路を通し、沿線開発を行いながら鉄道需要を創出していくというビジネスモデルを採用する。当初、大都市に勤める中堅サラリーマンの住宅地供給を意図したこの沿線住宅開発は、やがて閑静な高級住宅地の原型を形成していく。

一方、駅という窓口を得た古くからの集積地は、生活に直結する諸機能が複合発展し、一見猥雑な「下町」的様相を強めていくことになる。

東京の私鉄の発祥には様々なタイプがある。当初は貨物輸送を重視したもの(西武池袋線や東武伊勢崎線など)、旧宿場町を連結したもの(京王線や東武東上線など)、A地点とB地点を結ぶことを主目的としたもの(成田山の京成線、川崎大師の京急線など)は、いずれも明治末~大正初めに整備された「阪神型」だ。一方、東京が急拡大する昭和の初めに整備された路線は「阪急型」の色彩が濃い。東横線や小田急線がその代表である。