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フランケンシュタインの大腸菌

生命1.0への道 第12回

本連載でテーマとしている合成生物学は、つまるところ「生命とは何か」という究極のテーマを考える試みです。この問題を考えるとき誰もが思い浮かべるのは「生きているとはどういうことか?」という問いでしょう。しかし、もう一方の問いの重要さにはあまり気づいていません。すなわち「死んでいるとはどういうことか?」という問いです。 実はこれに対しても、科学はいまだに確たる答えをもっていないのです。

絵・米田​絵理

ホラー小説の先駆けともいわれる19世紀初めの傑作『フランケンシュタイン』では、若き科学者は「死のかたち」を見つめつづけたあげく、とんでもない怪物を生みだしました。それから200年後、やはり「死」について考え、大腸菌を使って「なにものか」を生みだそうとしている科学者がいます。

前回のアンケートには8月21日現在で62人の方々にご回答いただいた。

「細菌に生命はあると思いますか?」という問いに対しては「あると思う」が77.4%、「ないと思う」が12.9%、「どちらとも言えない」が9.7%だった。

「植物に生命はあると思いますか?」という問いに対しては「あると思う」が88.7%、「ないと思う」が8.1%、「どちらとも言えない」が3.2%だった。

細菌については「まあ、そんなものかな」という気がしないでもない。しかし植物について「生命がある」との答えが9割を切ったのは、少し意外だった。

『伊勢物語』の中に「岩木にしあらねば」という表現がある。これは「岩や木とちがって人には情があるから」という意味で、昔から木が岩といっしょくたにされることはあったようだ。一方で『日本書紀』には「葦原中国ハ、磐(岩)根、木株、草葉モ、猶能ク言語フ(あしはらなかつくには、いはね、このもと、くさのかきはも、なおよくものいふ)」と書かれていたりする。つまり神話的な時代の日本では、岩も木もよくしゃべったらしい。

今は深入りしないが、このへんの話とアンケート結果とをからめて、後の回で少し議論できたらいいなと思っている。

怪物もしくはゾンビ

今年の夏は北半球全体が燃えているようだ。この原稿を書き始める数日前には、埼玉県熊谷市で国内歴代最高気温が記録された。記事が公開される日も、おそらく残暑が厳しいだろう。なので今回は涼をとるため、ややホラー仕立てにする。あくまでも仕立てるだけで、紹介する研究が恐ろしいとか怖いとか言うつもりは毛頭ない。少なくとも現時点で、特段の危険性はない(たぶん)。

イギリスの作家メアリー・シェリー(1797~1851)が、1818年に出版したゴシック小説『フランケンシュタイン』は、数々の映像化作品で有名だ。しかし原作は意外に読まれていないらしく、わりと誤解されていることが多い(写真1)。

たとえば「フランケンシュタイン」は登場する怪物そのものの名前と思われがちだが、実際にはそれを生みだした主人公の名前である。怪物自体に、これといった名前はつけられていない。背丈が244センチメートルと大柄で、非常に醜いといった特徴は映画などと同じだ。

またフランケンシュタインという人物についても、老境にさしかかって白髪を振り乱しているようなマッドサイエンティストを思い浮かべるかもしれないが、実際は若い天才肌の大学生である。

彼は12歳のときに出会った書物のせいで、しばらくの間、錬金術にハマってしまう。しかし15歳くらいまでには、それが過去の遺物だと理解して、自然科学の勉強に邁進する。ただ鉛を金に変えるとか、不老不死の薬をつくるといった類の、奇跡的なことをなしとげたい衝動は残っており、それが彼を「生命の創造」へと駆り立てていく。

【写真】シェリー肖像、フランケンシュタイン2版、カーロフのフランケン
  写真1 メアリー・シェリーの肖像画(左)と『フランケンシュタイン』1831年版の扉(中)、およびイギリス出身の俳優ボリス・カーロフの扮する有名な「怪物」像 photo by gettyimages

ずっとご愛読いただいている読者はご存知と思うが、この連載でフランケンシュタインの名前を出すのは2度目だ。最初は第9回「5年以内に実現? 光合成をして分裂もする人工細胞〈後編〉」だった。東京工業大学・地球生命研究所(ELSI)特任准教授の車兪澈(くるま・ゆうてつ)さんがつくろうとしている人工生命に対して、以下のような批判が出る可能性を述べた部分である。

「生命をつくったと言ったって、もととなる材料のほとんどは大腸菌から取ってきたり、大腸菌につくらせたりしたものばかりじゃないか。無生物的に合成されたものだけを使うならともかく、これでは生き物をバラして、また組み立てただけだ。いわば『フランケンシュタインの怪物』であって、『人工生命』とは呼べない」

ここでフランケンシュタインの喩えは、おおむね妥当だと思われる。ただ厳密に言うと、シェリーの描いた怪物の体はすべて墓場などから掘り起こされた「死体」の寄せ集めであり、生きている人間から取りだしたようなものは使われていない。また集めたものを組み合わせただけではなく、詳細は描かれていないが「命を与える」という過程をふんでいる。つまり勝手に生命体として蘇り、動きだしたわけではない。

しかし、その小説が発表されて200年後の今日、まさに大腸菌を一度ちゃんと殺して、再び蘇らせようと目論む新進気鋭の研究者がいる。東京大学工学系研究科講師の田端和仁(たばた・かずひと)さんだ(写真2)。さすがに大学生ほどではないが若手で、ちょっと見上げるほどに背が高い。しかもがっしりとした、アメフト選手のような体格である。だからといってフランケンシュタインや、その怪物に似ているとか言うつもりは毛頭ない。

この田端さんの研究も厳密に言うと、複数の死体から部品を集めるのではなく1個の菌を丸ごと使うので、むしろ「大腸菌のゾンビ」をつくる研究と言ったほうがいいのかもしれない。ただゾンビは動きまわって生きているように見えても、あくまで腐りかけた死体という設定らしいので、やはり喩えるならフランケンシュタインの怪物がより適切だろう。

【写真】田端和仁さん
  写真2 黄色い照明のクリーンルームで、実験に使うデバイスについて語る田端和仁さん

200年前の合成生物学者

この連載を通じてずっと、直接的あるいは間接的に「生命とは何か」という問いかけをしてきた。このとき、往々にして頭に浮かぶのは「生きている状態」とは何かという疑問だったと思う。一方で、あまり「死んでいる状態」とは何かを問うことはなかった。

近い話をしたのは、前回の記事で東京工業大学生命理工学院准教授の田川陽一(たがわ・よういち)さんが定義する「生命体」を説明したときである。

「重要なのは『代謝』をすることだ。それこそが『生命体』の条件だと考えている。哺乳類の場合、代謝とは外から有機物(栄養)と酸素を取り入れてエネルギーをつくりだし、体の構成物質を古いものから新しいものへと、どんどん入れ替えていくことだ。

これを物理学的な専門用語では『非平衡状態』と呼ぶ。死んでしまえば、生命体といえども普通の物質と同様な『平衡状態』となる。すると、もはや体がリニューアルという形でつくり続けられることはないから、最終的には分解してしまう」

統計をとったわけではないが、このように考える研究者は比較的、多いようだ。

しかし生命が「生き物」であると同時に「死ぬ物」なのだとしたら、つまり生と死は一体のものだとしたら、これだけでは大雑把すぎるというか、片手落ちだろう。結局、死とは代謝が止まること、生とは逆の状態だと語っているに過ぎないからだ。もっと具体的な死の定義について、考えたほうがいいのかもしれない。シェリーの『フランケンシュタイン』には、次のような一節がある。

生命の源を解明するためには、まず死を頼みの綱にしなければならない。私は解剖学に親しんだが、それだけでは不十分であり、人体が自然に朽ちて崩れていくのを観察しなければならなかった。(中略)

人間の繊細な感覚には最も耐えがたい、あらゆるものに私の注意は惹きつけられた。人間の優美な姿が、いかに腐り果て崩壊していくかを私は見た。つやつやとした生命の頬が、死の腐臭を放ち始めるのに立ち会った。目や脳の驚くべき精緻さが、ウジ虫たちの腹に収まって受け継がれていくのを目撃した。

生から死へ、そして死から生へという移り変わりの例となるような、あらゆる仔細な因果関係を検討し、分析しているうちに、やがて暗闇のただ中から一筋の光が、突如として私の頭上に射してきた。

(訳/藤崎 慎吾)

主人公の学生に、死体を蘇らせる方法がひらめいた瞬間である。その具体的な内容はどこにも書かれていないわけだが、なかなかよくできた描写だ。墓場で死体が腐っていく様子を日夜、延々と観察し続けるというのは、まともな神経の人間にはできないと感じさせ、その忍耐の果てに大きな発見をしても不思議ではないと読者を説得しているわけである。

しかも「生から死へ、そして死から生へという移り変わりの例となるような、あらゆる仔細な因果関係を検討し、分析して」というあたりは、おぼろげながら現在の合成生物学を予見しているような響きがある。