47年前の1971年、京都の高校で紛争があった。
7月の夏の一日、深夜に高校へ侵入した生徒たちによって、教務室が封鎖された。
翌日に予定されていた期末試験を粉砕するためだった。テストは延期されたが、翌日の夕刻に機動隊が導入され、封鎖していた生徒は逮捕された。
その2年後に私はその高校に入学した。
まだ紛争の余燼が燻っていた。ほんの少しだけど。
紛争から2年たった1973年の7月15日、その日は授業がおこなわれず、「2年前の紛争についての話し合い」がおこなわれた。授業を取っ払って、紛争を語る日が設けられていたのだ。一年生にとっては、驚きだった。7月15日は、教務室がバリケード封鎖され、機動隊が導入された日である。ある種の記念日だった。
ただ私はその日、ずっと違和感があった。
何かしらの引っかかりを感じていた。だから、45年前の夏の出来事だけど、いまだにそのイベントのことを覚えている。
違和感は、おそらく「ぼくたちは何も知らないのに」というところから発していたとおもう。
紛争時に中学2年で、紛争の2年あとに入ってきたぼくたちは、紛争についてはほとんど何も知らかった。
3年生は紛争に巻き込まれた学年である。
教務員室が封鎖されたため、その日予定されていた期末テストが延期になった。当時の在学生徒はすべて関わりがあった。そのあと繰り返し全校集会が開かれ、いくつかの制度が変わった。かなり強烈な体験だったはずだ。その人たちが、ぼくたちが入ったときの3年生である。
クラスごとに縦割りで討論会(ティーチイン)が開かれた。
ぼくは3組だったから、1年3組と2年3組と3年3組が一緒になって討論会を持った。教室でやった覚えがあるから、クラスを3つに割って、1年から3年が合同で討論したのだったとおもう。
何とも不思議な討論会だった。
紛争がおさまり、それにともなう制度の変更が終わり、それらに馴染みはじめていたころに、ぼくたち1年は入ってきた。
紛争があったことは知っているが、細かいことは何も知らない。2年もそれに近かったのではないか。
そういうデコボコした連中が、ひとつところに集まり、ひとつの話をした。
きちんとみんな平等に話し合った。
民主主義的であり、自由であり、自主性を尊重されていた。
たぶん、違和感の原因はそこにある。