2018.08.27

亡命者を出さなかった明治維新

日本史の動乱と戦争から見えること
井上 章一 プロフィール

多くの日本人は、国際化がすすむことを近代的な現象だと考えようか。しかし、西洋はちがう。古い封建領主は、国境などこえたネットワークのなかに生きていた。そして、近代社会は国家の拘束力を強め、国民を強くしばりだす。かつての国際的な封建領主をも、国家という枠組で統制するようになっていく。

日本の封建制に、しかしヨーロッパ的な国際性はありえない。日本列島の一領主が、中国の皇帝につかえるといった事態は、おこりえなかった。あるいは、朝鮮王の臣下となることも。まあ、対馬や琉球は微妙だが。

日本の領主は、つねに日本の上位者を主人とみなしつづけてきた。元寇のさいに、どの領主も元側へつかなかったのは、そのためである。

いや、7世紀におこった白村江の戦いでも、同じことが言える。唐・新羅との対外戦争だが、日本側からぬけだす者はいなかった。さんたんたる敗北であったにもかかわらず。

国民国家の成立は、その意味で日本に関するかぎり、そう画期的な事態だとみなせない。以前からつづいてきた民族国家の延長上に、それは位置づけうる。

1950年代の左翼的な歴史家は、二つの立場にわかれて、論戦をくりひろげた。所感派と国際派の対立が、同じ共産党内の対立ではあるけれども、おこっている。

前者は、日本人という民族観の成立を、有史以後の根深い現象だと考える。いっぽう、後者はそれを近代国家が捏造した虚構として、とらえてきた。近年の国民国家論は、その意味で国際派の流れをついでいる。そして、私は所感派と近い考えを、いだいてきた。亡命者のでない明治維新像を強調するのも、そのことと深くかかわりあう。

「夷」は誰だったか?

さて、維新前の人民にとって、国は彼らのくらしている藩をさしていたと、よく言われる。人びとの国意識は、なかなか日本列島の全域におよばない。地域的な藩の範囲をでなかったと、誰もが語ってきた。

しかし、どうだろう。幕末期には「攘夷」という標語が、とびかっている。「夷(えびす)」、すなわち野蛮な外国人を、おい「攘(はら)」うのだ、と。

黒船。photo by Getty Images

この言い草で「夷」だとされたのは、もっぱら欧米人である。長州(山口)の人民は、筑前(福岡)や安芸(広島)を「夷」とみなさなかった。下関で「攘夷」を決行した時も、その敵だと位置づけられたのは、四ヵ国連合軍である。すなわち、イギリス、フランス、アメリカ、そしてオランダであった。

のみならず、幕末の「攘夷」は、アイヌをも標的としていない。もちろん、琉球も。維新の前を生きた人民にとって、国は藩の枠をこえなかった。よく聞く物言いであるが、私はこれをうたがっている。全面的に否定するつもりはないが、より限定的にとらえたいと考える。

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