上野戦争 Photo by Gettyimages

亡命者を出さなかった明治維新

日本史の動乱と戦争から見えること

白村江の戦い、応仁の乱、大坂の陣、禁門の変……、従来の英雄たちの物語としてではなく、民衆を主語として、日本史上の戦乱を読み解いた『戦乱と民衆』(磯田道史+倉本一宏+F・クレインス+呉座勇一著、講談社現代新書)が発売となり、話題を集めている。

この本のもととなった座談会に「参戦」をし、「京都ぎらい」の視点で、京都の町家と戦時体制について報告をした井上章一氏。その井上氏の特別エッセイを公開する。

『戦乱と民衆』刊行記念エッセイ第1弾 呉座勇一氏「一揆はほんとうに『進歩的な勢力が担っていたのか?」はこちら

『戦乱と民衆』刊行記念エッセイ第2弾 倉本一宏氏「いつの世にも、戦争を喜ぶ民衆はいるんです」はこちら

「『戦乱と民衆』刊行記念 磯田道史氏9月2日講演会@京都」のお知らせはこちら

日本人の平和好き?

明治維新は、平和裡にすすめられた革命、政権交代だと、よく言われる。江戸城も血をながすことなく、新政府側にひきわたされた。フランス革命やロシア革命とくらべれば、犠牲者の数はかぎられるというように。

私も、そのことじたいをうたがおうとは、思わない。仏露の大量虐殺に、とうてい明治維新での被害者数はおよばないだろう。だが、それを日本人の民族性にからめて論じられれば、違和感もわいてくる。日本人は平和的な民族だから、維新もスムーズに展開した。そんなふうに聞かされれば、ちょっとまってくれと言いたくなる。

じっさい、鳥羽伏見の戦いがおわった段階だと、まだまだ幕府軍にも戦意はあった。ただ、総大将の徳川慶喜は錦旗にうろたえ、戦線からにげている。あの時慶喜の腰が、もう少しすわっておれば、戦の帰趨はどうなっていたかわからない。戦闘はつづき、より多くの死者をだしていた可能性も、じゅうぶんある。

時代はとぶが、あえて言う。足利尊氏は敬愛する後醍醐天皇をうらぎって、南北朝の争乱を長びかせた。あの尊氏に匹敵する度胸が慶喜にあれば、平和裡に進行する維新はありえなかったろう。

しかし、水戸という尊王の家で育った慶喜に、その胆力はそなわっていなかった。最高指導者がひ弱であったというこの偶然も、政権交代をスムーズにさせたと思う。

徳川慶喜。photo by Getty Images

明治維新は、だからやっかいな内乱になる可能性を秘めていた。平和な維新という歴史を、必然的なものとしてとらえることは、ひかえたい。ましてや、そこから日本人の平和好きを言いたてることは、つつしむべきだと考える。

鎖国的な出処進退

しかし、だからと言って、明治維新を仏露の革命と同列に論じるつもりはない。ヨーロッパの革命と日本の維新には、決定的な断絶がある。なにより大きな違いは、幕末維新の動乱が、亡命者をださなかった点である。