追悼・ロブションが世界に遺したもの、日本に遺したもの

ひとつの時代は終わるけれど…

「美味しくて、楽しい」を世界に根付かせた

フランス料理の巨匠・ジョエル・ロブション(1945―2018)が天国に旅立った。このぽっかりと心に空いた喪失感は、落語家・立川談志が亡くなった時に奇妙なほど酷似している。

シェフであるロブションと、落語家の談志とを並べることに違和感を覚える人もいるかもしれない。そもそも落語は「芸能」であり、料理は「職人」の世界だ。それに、世界を股にかけグローバルに活躍したロブションに対し、談志は日本の古典芸能という限られた領域で生涯を全うした。

しかし、2人は人並外れた完璧主義者という共通項がある。

ロブションは自らの料理で「フランス料理を征服した」と言わしめた。談志もまた同じだった。

中世末期、宮廷料理として産声をあげたフランス料理は、ルネッサンスを経てフランス式の秩序を伴ったサーヴィスやテーブルマナーと共に確立された。ルイ14世によって建造されたベルサイユ宮殿はその繁栄の象徴で、政治力を背景に宮廷お抱えの料理人たちは日夜、美食の饗宴に精を出した。

特権階級の専売特許だったフランス料理は、フランス革命によって一気に民主化の道をたどる。街にはフランス式のサーヴィスで食事を提供する「レストラン」が溢れ、パリは世界でもっともおいしい料理を食べることができる「美食の都」と呼ばれ黄金時代を迎える。

パリを中心とした中央集権的な価値観に一石が投じられたのは19世紀。「地方」という概念の誕生だ。それは、観光旅行と美食が結びつき「食べ歩き」というブームを巻き起こす。

事実、フランス各地のレストランやオーベルジュには、パリでは味わうことのできない伝統的な魅力ある地方料理が潜んでいた。食べることに貪欲なフランス人がこれを見逃すはずがない。そうした時代の潮流に乗って誕生したのが、ガイドブック「ミシュラン」だ。レストランを星の数で格付けするそのスタイルは、瞬く間にフランス料理の最高権威として君臨することになる。

ロブションは1945年、フランス西部のポワチェというコミューンに生まれた。15歳で料理の見習いをはじめ、パリの複数の店で修行し25歳にして早くもシェフの称号を得る。その後、数々のホテルやレストランで頭角を現し、弱冠31歳の若さでM.O.F(フランス国家最優秀料理人)を受賞。そして、1981年に自らのレストラン「ジャマン」を開業する。

ここから始まるロブション伝説は余りにも有名だ。開業1年目でミシュランの一つ星を獲得すると翌年には二つ星、そして3年目には三つ星を獲得。ミシュラン史上最速の快挙だった。ロブションは「1年目と3年目で自分の料理のクオリティーは何も変わっていない」と啖呵を切り、「自分の料理で三つ星の正当性を証明しなくてはならなかった」と語った。

二つの世界大戦を経て、フランス料理には変革期にあった。肉を主体とし、濃厚なバターや生クリームで味付けした重厚な料理ではなく、野菜を多用し、素材の味を際立たせる軽い味付けや繊細な盛り付けを重視する「ヌーベル・キュイジーヌ」がもてはやされたのだ。

若き日のロブションの料理を食べるために何度もパリに足を運び、その偉業を日本にいち早く伝えたのが料理評論家の山本益博(70)である。

山本は、フランス料理の巨匠ポール・ボキューズが、世界にフランス料理を広めた「大使」だとすれば、ジョエル・ロブションは、フランス料理が「おいしくて、楽しい」ということを世界に根付かせた「グランシェフ」と語る。

「彼の料理は正確、洗練、清潔。皿の上に余分なものが何もないんです。ただ厨房での気迫は凄まじく、その目はギラついていて、恐ろしいまでの完璧主義者でした。フランス料理が世界で最もおいしい料理だということを、自分の料理と通じて証明しようとしていたのだと思います」(山本)