昭和8年生まれ。長嶋茂雄氏、野村克也氏の2学年上。首位打者2回、本塁打王5回、打点王3回。すべて入団7年めまでに獲得したタイトルだ

高校生大会に出場した「最後の中学生」その怪童伝説をご存知ですか

甲子園レジェンドインタビュー 第3回
「投手の肩の辺りを抜けたライナーがそのままギューンと伸びて平和台球場のバックスクリーンを超えていった(センターを守っていてこの打球を見送った故・青田昇氏〈元・巨人他〉の証言)
「ベンチ前で素振りをすると、反対側の南海ベンチまで「ブンッ」という音が聞こえてきた。そんな選手は他にはいなかったね」(野村克也氏〈元・南海他〉の証言)
数々の怪物伝説を残し、日本プロ野球史上最高のスラッガーともいわれる中西太さんが、甲子園の初見参したのは、今から69年前の春だった。御年85歳となった”元祖怪童”が、8月18日のレジェンド始球式に登場する。

3年生の相手エースをビビらせた1年生の打球

選抜高等学校野球大会の入場行進曲は、常に時代を彩る曲を入場行進曲としてきた。『異国の丘』が流れた昭和24(1949)年。その年に高校に入学する新一年生、大会期間中はまだ中学生なのに、甲子園のグラウンドに立っている選手がいた。元祖怪童・中西太さんがその人だ。

 

「僕が中学3年の時が旧制最後の年で、翌年から完全に新制の6・3・3になったから、その年の秋の予選には当然中学生で出てるんだ。選抜大会の時もまだ新制高校の入学式の前だったからね。旧制と新制の区切りという特殊な事情があったおかげだろうね」

中等学校野球から高校野球への移行の年。12歳で入学し17歳で卒業する旧制中学(5年制)は、この年4月から、1〜3年生は新制中学の生徒に、4、5年生は新制高校の1、2年生となった。中西さんは、旧制高松第一中学の3年生から、新制高松第一高校の1年生となる。この年の4月1日から6日まで開催され、学制改革の狭間となったこの選抜大会は、中学生が出場した最後の大会となったのだ(現在は、入学予定の新1年生は出場できない)。

敗戦から4年、まだ食糧難と貧困が残る時代だった。

「甲子園に行くときも米持参で行くのよ。高松港から夜中の12時ぐらいに船に乗って、神戸港に朝6時ぐらいに着く。それから道具と米を持って元町から宿舎まで歩くんだ。旅館も米がないと泊めてくれなかった」

中西少年の高松一高はこの年、春はベスト8、夏はベスト4まで勝ち上がる。

「でもね、食糧がだいたい2試合分しか用意できなかったから、勝ってもその後の米のことが心配であんまり喜べなかったね」

日本全体が食べることに精一杯の時代に、怪童はそのパワーで全国に強烈な印象を残した。夏に対戦した芦屋の有本義明氏(元ダイエー二軍監督、評論家)は、

「打たれた瞬間、ピッチャーライナーだと思って右肩にグラブを差し出した。それをかすめるように打球はセンターへ。こっちは最上級生、向こうは一年生なのに、打球の迫力にこっちがビビってしまったよ」

と語っている。だが、怪童もその才能だけで勝負していたわけではない。

昭和24(1959)年夏の第31回大会の中西さん(中央)。準決勝で、優勝した湘南に延長10回3対2で敗れた

「確かに元々運動は万能だったけど、この頃の徹底的な基礎練習がその後の自分を作ってくれたんだ。そりゃ、練習は厳しかった。ミスをすれば殴られるわ、バットの上に正座させられるわで、部員は減る一方だったけど、僕はそういうもんだと思ってたから平気だったね」