3回戦で対戦した早実の荒木大輔は「高校生の中に1人だけプロが混ざっているようだった」と金村さんを評した

選抜の挫折を糧に優勝を勝ち取った「エースで4番」金村義明の伝説

甲子園レジェンドインタビュー 第2回
「エースで4番」
すべての野球少年の憧れである。
”二刀流”大谷翔平は、世界の最高峰・メジャーリーグでそれに挑戦しているわけだが、高校野球の歴史の中では、「エースで4番」として頂点に立った選手は少なくない。
1998年に春夏連覇を成し遂げた横浜の松坂大輔(現・中日)は、「平成の怪物」と言われ、投手として注目されているが、4番打者として杉内俊哉(鹿実/現・巨人)から本塁打も放っている。また、65回(1983年)、67回(1985年)の優勝投手であるPL学園のエース桑田真澄(元・巨人、パドレス)は、甲子園通算20勝を誇る大エースだが、本塁打も清原和博(元・西武、巨人他)に次ぐ歴代2位の6本を打っており、清原がいないチームなら確実に4番を打っていただろう。近年では、中京大中京の堂林翔太(現・広島)が「エースで4番」として91回大会(2009年)に優勝している。
そんななかで、最も「エースで4番」らしい輝きを放ったのは、8月17日のレジェンド始球式に登板するの金村義明(報徳学園/元・近鉄、西武他)さんだろう。

勝てないと思ったライバルから打った本塁打

金村さんは、松坂大輔に1つだけ勝っていることがあるという。

「オレは優勝まで1人で投げ切ったが、あいつは1試合だけ、他人に放ってもらったことです」

 

63回(1981年)大会、金村さんは、報徳学園のエースとして、地区予選から全13試合に登板し、甲子園では決勝までの6試合全イニングを投げきり、防御率1.14という見事なエースぶりで優勝している。

しかも、4番打者として打率5割4分5厘、2本塁打と打ちまくったのだが、3回戦は、前年度準優勝投手である早稲田実業の荒木大輔(現・日本ハム二軍監督、元・ヤクルト)、準々決勝は、今治西の藤本修二(元・南海、ダイエー)、そして準決勝は、200勝投手で名古屋電機(現・愛工大名電)の工藤公康(現・ソフトバンク監督、元・ダイエー、巨人他)のといったプロでも活躍した好投手を打ち込んでの成績である。

金村さんは1963年、宝塚市生まれ。2歳上の兄の影響で地元の少年野球チームに入り、小学校4年からエースで4番。中学から、地元の名門報徳学園へ。すでに兄も報徳に入っていて、決して裕福ではなかった家では、学費は大変だったらしい。しかし、義明少年の熱い説得で、お母さんが電電公社(現NTT)の寮母さんのパートに出かけ野球を続けさせてくれたのだ。しかし、名門私立の野球部。1年から目立つ金村への嫉妬からか、母が父母会でいじめられ泣きながら帰ってくる。

「絶対負けるな。おまえがおらんかったら困ってしまうようなワンマンチームにしてまえ」

肝っ玉母さんの檄を、義明少年は忠実に実行した。そして、高校でも1年生からベンチ入りを果たすが、2年連続予選敗退。甲子園への道は遠かった。

「学校から甲子園まで自転車で15分。代表校の中で距離でなら1番近いのに、3年になるまでは甲子園は遠いところでした」

2年秋の近畿大会で好成績を収め、1981年の選抜に出場。ついに”1番近くて遠い甲子園”は自分のものとなる。

出場が決まって他校を見ると、早実の荒木を始め、秋田経法大付属の松本豊(元・横浜)、そして大府の槙原寛己(元・巨人)と、投手豊作の年という事を認識する。

「速いったって同じ高校生や、勝負したる」

運命の女神のいたずらなのか、抽選の結果、1番意識していた槙原と1回戦でぶつかる。

サイレンもなり止まぬうちに槙原の投げた1球は、まさにケタ違いの速さ。球速は147キロ。文句なしの速球派の登場に、負けん気のエースは意地になる。

「1回裏、槙原なんかに負けるかと、精一杯投げ込んだ直球が138キロ。そこからどんどんムキなって速球一本で押しました。そしたら、序盤であっという間に5失点。そこでやっと冷静になって後半は抑えるんですが、気づくのか遅すぎましたね」

金村さんは、「この試合で、自分のピッチャーとしての限界はハッキリ見えた」と言う。ただ、打撃では非凡さを示し、豪球投手槙原からホームラン含む3安打と意地を見せた。

この1回戦敗退の屈辱は、野球選手・金村義明の重要な分岐点となった。

「速球ではかなわん。甲子園で勝つためには、かわすピッチングを覚えなくてはならない。そして、オレは打者としてプロを目指す

夏の快進撃は、キレのある変化球と抜群のコントロールを駆使した巧みな投球術で相手を翻弄し、打撃では4番バッターとしての意地を見せつけた結果だったのだ。