あの戦争の呼び名が、いつ「太平洋戦争」になったか知っていますか

実は、意図的な「転換」が行われていた
堀井 憲一郎 プロフィール

日本人の意識を作り上げた呼び名

明確な言い換えが始まるのは、昭和20年12月に入ってからである。

12月7日紙面には、近衛文麿公爵、木戸幸一侯爵ら、戦争犯罪容疑で逮捕命令が下るとの記事が衝撃をもって報じられている。そこで近衛文麿について「所謂「日支事変」当時の首相であり、太平洋戦争直前において第三次近衛内閣の陸相たりし東条英機大将に道を譲った」と紹介されている。

支那事変ではなく日支事変、大東亜戦争ではなく太平洋戦争へと言い換えられている。

きわめて意図的である。

そして、ここが明確な転換点だとおもう。

昭和20年12月から、天皇周辺の要人も戦犯として逮捕されるようになり、支那事変・大東亜戦争という用語が使われなくなったのだ。

12月8日の紙面は3面と4面をぶち抜き(このために増ページされたものだとおもわれる)、2面全面を使っての「太平洋戦争史」記事が載る。これは連載記事となり、12月17日まで続いている。

「太平洋戦争」という文字が大きく出るのはこの12月8日紙面からである。

「米国司令部当局」が日本国民に戦争の真実を知らせると意図のもとに書いたと最初にそう明記されている。つまり「太平洋戦争」という呼称は占領軍が指定したものだということがわかる。

昭和6年の奉天事件から記事は始まり、戦争へ突入した背景を説く。それまで報道規制によって戦争の全体像を把握しにくかった日本国民に向けて、この戦争がなぜいけなかったのかについて説明している。

まだまだ戦争推進した勢力が強い国内において、この戦争は明確に間違っていた、ということを示した記事である。これから軍事裁判が始まるため、戦争指導者の罪をあきらかにしておこう、という意図もあるのだろう。

だから日本の戦争指導者が使っていた「大東亜戦争」という言葉を廃し、「太平洋戦争」という耳慣れない言葉に換えた。

 

これによって日本人にとっての「自分たちが経験した大東亜戦争」と「敗戦してから反省する太平洋戦争」は分離されることになった。「大東亜戦争」は、戦争指導者とともにあちら側に送られ、ふつうの日本人にとっては「自分たちの意図したものではなかった太平洋戦争」があらたに示され、その理念を自分たちのものとして共有することになった。

「大東亜戦争」は、最初は雄々しく勝ち続け、日本の占領地も広まり、威勢のいい始まりだったが、途中からよくわからない展開となり、最後は惨憺たる状況で負けた戦争であり、「太平洋戦争」というのは、アメリカから見えていた「負けるとわかってるのにつっかけてきた愚かな戦争」という全体像として提供されたのだ。

このふたつの意識は、みごとに分断された。日本人としては助かった気分だったはずだ。

戦時中の日本人の戦争観と、敗戦のあとの日本人の戦争観をよりきちんと分断するためにアメリカ軍占領司令部は、言い換えを強要したのだとおもう。

それは戦争が終わって、4ヶ月め、4年前の「開戦記念日12月8日」から始まった。それはその後、長く続くことになる。

これはいいとか悪いとか、判断できることではない。こちらは戦争を仕掛けて、負けたのだ。どうしようもない。是非に及ばず、としか言いようがない。
 
やはり、もう少し時間がたってきちんと冷静に歴史的に見直されるまでは、「開戦時には大東亜戦争、敗戦して太平洋戦争と呼ばれた戦争」と呼ぶしかないようにおもわれる。また、そう呼ばない場合も、そういう変化を意識はしておいたほうがいいと私はおもう。とても面倒な作業である。でも七十年を越えてそういう面倒を抱えさせるような戦争だったということなのだ。