自撮りは楽しいけれど(photo by iStock)

スマホのレンズを向ける、この気持ち悪さ、この違和感

新作小説のモチーフにたどり着くまで

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どうもうまくいかなかった

芥川賞を頂いてから2年が経っていた。

別にさぼっていたのではない。受賞の少し前に生まれた娘の世話に明け暮れたり、細々と仕事をこなしながら、ちんたらしているうちに、時間が経過していた。

思い返してみると、前作『異類婚姻譚』の発表も前々作から2年後だった。その時は、正直なまけていた。

こうなりゃ私のこの自堕落ぶりを書いてやろう、人がどのようにして誓った決意を破り、楽な方へと流されていくかを描写してやろうではないかと、半ばヤケクソで自分の中の怠惰という化け物を正視し、ようやく一作仕上げることができたのだった。

しかし、同じことは書けない。というか今回、私は別になまけていたわけではないのである。妊娠、出産という大仕事をした。子育てに至っては真っ只中だ。

ここから泉が湧くように書くことが生まれるに違いないと私は期待し、ごく自然に娘のことを記録し始めていた。初めは小説として書き出したが、どうもうまくいかなかった。

やり方がよろしくないのかと断片的にしたり、日記風にしてみたりとあの手この手で奮闘したが、やっぱりダメだった。絶対的個人的な体験であるにもかかわらず、どこかで見聞きしたような母と子の物語にしかならないのだ。そこに私だけのオリジナルの唾のようなものがどうしてもまぶせないのだった。

私は半年ほど未練がましく粘り、そして諦めた。子育てという経験に関して、今の私からは何も生まれないのだと。

 

「眼差し」を持ち込む作業

しかしそうなると、一体何について書けばいいのかわからず、途方に暮れた。これまでいくつも小説を仕上げてきた過程で、私には少しずつわかってきたことがある。自分にとって「小説を書く」とは、そこにひとつの「眼差し」を持ち込む作業だ。

その眼差しが饒舌でナルシスティックで変態的だろうが、無口で批評的でサディスティックだろうが、その「眼差し」(色眼鏡とも言う)を通して、読者は見慣れているはずの場所を見直すのではないかと。

その色眼鏡は赤や紫でもよいし、ピンクやギンギラギンのゴールドなんかであっても構わないのだ。

だというのに、娘が生まれてからの私にはその持ち込むはずの眼差しがないのだった。子育てにかまけ、いろんなことに見て見ぬ振りをしたせいかもしれない。

怠惰とはまた別の化け物が、体の中でぶくぶくと太り始めているような気がし、私は慌てて辺りを見渡そうとした。

が、その時にはもう垢がまなこにびっしりとこびりついていた。何も見えない。垢しか見えない。私は眼差しのない、小説のできそこないをだらだら途中まで書いては、パソコンのフォルダにしまい込んだ。原稿用紙を引き出しに放り込んだ。