差別とは何か?「社会の役に立たない人間は無価値」と信じる人たちへ

自分の「差別的部分」を直視できるか
原田 隆之 プロフィール

その帰結の1つが、ネットでのヘイトスピーチの氾濫に見られるような「黒い部分」の噴出であり、「やまゆり園事件」のような極端なヘイトクライムだったのかもしれない(もちろん、この犯罪をこうした社会的要因だけで語ることはできない。そこには被告のもつパーソナリティ要因や生物学的要因などを併せて分析する必要がある)。

その意味で、本書の発刊には大きな意義がある。植松被告一人を死刑にしても、その言論を封じても、世の中から差別や醜いヘイトはなくならない。

「社会全体の問題」として、犯罪と直面し、その声を聴き、分析することによって、極端な憎悪やヘイトクライムを防止するすべを考えていかなければならない。

その主張が本になったくらいで、影響を受けて同様の考えを持ったり、犯罪をしたりする人々が増えるならば、人間なんて所詮そのようなものなのだ。

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しかし、私はそうとは思わない。

醜悪な主張をなかったかのようにして社会のどこかに埋めるのではなく、まずはそれと向き合って、「社会全体の問題」「自分自身の問題」としてとらえ、理性と共感性をもって、それを克服しようとする人間の力を信じたい。

人間はそもそも差別的ではあっても、それを自らの力で克服しようとするところに、その偉大さがある。

そして、その端緒となることは、まず自分のなかの差別的な部分と向き合うことだ。そして、それと同じくらい大切なことは、自分のなかの「マイノリティ的な部分」「弱み」と向き合うことだ。

そもそも、人間は誰しもどこかに「マイノリティ的」な部分を持っている。障害と認定されるほどではなくても、心身の故障があったり、そうでなくてもどこかに「弱み」を抱えている。また、年齢を重ねるに従って、誰しも心身の「弱み」は増えてくる。

差別的な人は、自らのなかにある「マイノリティ的」な部分を恐れ、声高に「自分はマジョリティの側にいる」と叫んで、マイノリティを殊更に差別することで、自分が差別される側になる恐怖を紛らわそうとしているのだ。

 

杉田議員にしても、本人は殊更に「普通であること」の大事さを説き、自分は「普通の側」にいることを強調している。しかし、あのような人間性を欠いた発言を堂々とできるメンタリティはとても「普通」ではない。多くの批判を浴びるなかで、彼女にはそのことに気づいてほしい。

多様性を認めるということは、弱い誰かを受け入れてあげましょう、守ってあげましょうということだけではなく、自らの「普通でない部分」に向き合い、それを認め、受け入れることから始める必要がある。

やまゆり園事件を受けて、「ひどいね」「差別はよくないね」などと言うことはだれでもできる。それはあくまで「他人事」としてのとらえ方だ。

本書はたしかに「パンドラの箱」を開けた。その箱のなかを覗いたとき、そこに自分の顔はなかっただろうか。