差別とは何か?「社会の役に立たない人間は無価値」と信じる人たちへ

自分の「差別的部分」を直視できるか
原田 隆之 プロフィール

社会は悪化しているのか

ネット上での事件への賛美やヘイトスピーチの氾濫を見て、最近の「右傾化」を嘆く声は多い。

本書のなかでも、精神科医の香山リカ氏が「今はあからさまに『そんな人たち(注:障害者)は迷惑なのだ、存在してもらっては困る』とはばからずに言うという、そういう雰囲気もある」と述べて、「希望が無い」と悲観している。

たしかに、ネット時代になって、誰でも匿名をいいことに好き勝手なことを主張できるようになり、ネットは醜悪な発言であふれている。

ただ、これは人々がこぞって悪人になったというよりは、誰もが皆、心のなかに密かに抱えている「黒い部分」が発現しているだけなのではないだろうか。

つまり、ネットでヘイトスピーチを平気でする人々の大部分は、名前のある表の社会では、良識ある社会人として「差別はいけない」と「白い部分」を出して日常生活を送っている。そして、ネットの匿名の世界では、「黒い部分」をこれでもかと露わにする。

〔PHOTO〕iStock

これは、古谷経衡氏の調査でも明らかになっていることでもある(「ネット右翼」は日本に何万人いるのかを測る、ひとつの試み)。

古谷氏によれば、いわゆる「ネット右翼」と言われる人の平均的人物像は、「年齢38歳、大卒、年収450万円、主な職業は自営業、自由業、士業、公務員、管理職」、つまり「首都圏に住むアラフォーのホワイトカラー」なのだという。

ネット上でのこのような罵詈雑言の氾濫は、言葉狩りやポリティカル・コレクトネスの動きに代表されるように、世の中が「清く正しく」なっていく一方であることの裏返しなのかもしれない。

 

差別とどう向き合うべきか

もちろん、ある程度の差別があったほうがよいと言っているわけでは決してない。しかし、現実的に見て、人間は多かれ少なかれ差別的な存在だ。

まずは、その現実を直視しなければならない。「差別はある」というところから議論をスタートさせないと、空虚な理想論に終わってしまう。

差別をあたかもないことのようにして、世界が真っ白であるかのような幻想に浸り、黒い部分を直視することを回避しているのが、現在のわれわれの社会である。

メディアも、事件にセンシティブな問題が絡んでいることを察すると、途端に報道がうやむやになってしまう。