差別とは何か?「社会の役に立たない人間は無価値」と信じる人たちへ

自分の「差別的部分」を直視できるか
原田 隆之 プロフィール

自分の心のなかを見つめて

かつて、大学の教え子が知的障害者施設で働き始めたとき、仕事の大変さを切々と聞かされたことがある。

もちろん、彼は親身になって誠心誠意、在所者のために献身しており、偏見や差別とはまったく無縁である。とはいえ、その仕事が大変なことは事実である。

私はその実情を聞いたとき、「果たして自分にそれが務まるだろうか」と自問した。植松被告の手記を読んだとき、私はこのときの自分を思い出したのである。

そして、本書に掲載された2人のインタビューを読むと、さらに障害者に対する社会のあり方について、きれいごとだけでは済まされない現実に直面させられる。

 

まず、やまゆり園の家族会代表の尾野剛志氏のインタビューでは、「子どもが津久井やまゆり園にいるのに一度も来ない人がいる」「障害を持った人が亡くなった時に、家族がお墓に入れないという例もある」(原文ママ)という現実が述べられている。

また、自身も重度の障害者である海老沢宏美氏は、事件についてショックを受けたと述べながらも、「でも一方で、事件が起きたことに対しては驚かなかったというのが正直なところなんです。私は、重度障害者として生きてきた中で、ずっと差別をされてきました」と告白する。

さらに、「障害を持った子が生まれてきたとなると、周りから絶対におめでとうと言われないんです」「生まれた瞬間から障害者って歓迎されていないんですよ」「いないほうがよいと思っている人が実はたくさんいるんですね」と述べる。

〔PHOTO〕iStock

このような現実を知るにつけ、私もそして社会も、程度の差こそあれ、どこか被告の主張と地続きであるような障害者に対する違和感、戸惑い、さらには差別、偏見などを抱えてはいないかという不安を打ち消すことができない。

誰も表立ってはそんなことを口にはしない。また、多くの人々が、事件を受けて大きなショックや怒りを抱いたのも嘘ではないだろう。

しかし、事件が起きるまで、言葉は悪いが、人里離れた大きな施設に知的障害者が「隔離」されるかのような現状であったことを誰も知らなかったし、障害者の問題は多くの人々にとって「他人事」であったことはたしかである。

事件を受けても「かわいそうだね」「ひどいね」と口にはするけれど、やはり他人事であり、2年が過ぎた今は、それもきれいさっぱり忘れ去られようとしている。