野間清治が赴任先の沖縄の学校で、生徒たちの心をつかんだある方法

大衆は神である(14)

上州の貧しい家から、東京帝大書記を経て、戦前日本を席巻するメディア・コングロマリット「大日本雄弁会講談社」を生み出した男——野間清治。

その豪快なビジネスセンスと、鮮やかな立身出世を賞賛する文献は少なくない。しかし彼の生い立ちやほんとうの人柄は、これまであまり詳らかにされてこなかった。

大河連載「大衆は神である」では、ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、日本の出版業界と近代社会の黎明の光と陰を追う。

会社設立以前、奔放でありながら人を引き付けていた野間清治。その姿を伝えてきた第一部に続く第二部では、講談社創立の原点となった雑誌『雄弁』創刊前後を描く。

第二章 『雄弁』創刊前夜──野間清治の沖縄時代 ⑵

中学教師になれば

日比谷焼き打ち事件より5年前の明治33年(1900)春、野間清治は前橋の師範学校を卒業し、自らの母校である山田第一高等小学校の訓導(くんどう)になった。

それから二年後の明治35年(1902)5月、清治は東京帝大文科大学内に設けられた第一臨時教員養成所の国語漢文科に入った。この養成所は、新設中学校の急増による教師不足を解消するため、新たにつくられたもので、東京帝大の教授らが講師をつとめた。

修業年限は2年間。ここを出れば、中学教師になる資格が得られた。

 

清治は例によって、授業をしょっちゅうサボった。そうして、名士の演説や講談、浪花節、落語を聞いてまわった。当然ながら成績は落第すれすれ。とにもかくにも中学教師になれさえすれば、俸給も上がる。その金をため、さらに上の学校に通うための学資にしよう、という腹積もりである。

松永武雄との出会い

その教員養成所で、清治は大事な人間と出会っている。東京帝大法科大学・文科大学の書記長(事務方のトップ)をつとめる松永武雄である。

松永は札幌農学校出身の農学士だが、英語に堪能だったので養成所の英語講師を兼ねていた。

松永は有能な男で、東京帝大総長の菊池大麓(だいろく、数学者)の厚い信任を得た。菊池は学習院長に転じたとき、年俸1200円で松永を引き抜こうとしたが、本人に断られた。のちの明治41年(1908)、京都帝大総長になったときも年俸1400円で招聘したが、松永は応じなかった。菊池が「いくらなら来てくれるのか」と松永に質すと、「2000円なら参りましょう」と答えた。

おそらく、これだけ吹っかければ、あきらめてもらえると松永は思ったのではないだろうか。何しろ夏目金之助(漱石)が朝日新聞に入社する前の年俸(東京帝大文科大学講師・一高講師)が、計1500円だった時代である。一事務官にそんなに多額の金を費やせない。

ところが、菊池は「そんな例はめったにないが、何とかしよう」と言って松永を京都帝大の書記に迎え入れてしまった。

話を東京帝大の書記長時代の松永に戻すと、彼は清治をかわいがった。機縁となったのは、教員養成所の教官と生徒の親睦をはかる泮水会(はんすいかい)の発会式だった。

そこで清治が指名もされないのに立ち上がり、会の意義について40〜50分、熱弁をふるった。松永はその演説に感心し、以来、何かにつけ清治に目をかけるようになった。

「いちばん俸給のいいところへやってください」

明治37年(1904)春、松永は清治に卒業後の赴任地の希望を訊ねた。戦前の口述録によると、清治は、

「いちばん俸給のいいところへやってください。その距離の遠近は問うところではありません。何となれば私は再びまた東京へ帰って、もう一段修行をしたいということがあります。この志を貫徹したい」

と、答えた。清治と同期の養成所の卒業生は25〜26名。それに対し、中学教師の口は全国で14〜15しかないと言われていた。落第すれすれにしては厚かましい物言いである。

松永は言った。

「とにかく(君の希望を)書いておこう。けれどもいちばん俸給の多いのは沖縄である。沖縄は(月給)45円、ほかは大概40円から35円、30円くらいである。沖縄には、だんだん調べると候補者がだいぶあるようだ。君の思うとおりにいかないかもしれない。口があればいいくらいに思ってもらいたい」

赴任先が発表された。清治は沖縄だった。松永の配慮である。そのうえ、松永は「また東京へ帰って、もう一段修行をしたい」という清治の言葉を忘れなかった。あとになってわかることだが、松永の心遣いが清治の運命を切り開くことになる。