戦後73年、吉田茂の「軽軍備国家論」から考えるもう一つの敗戦

日本版CIA挫折とともリアルを失った

国家社会主義拒否としての吉田ドクトリン

73年前の敗戦のあと、日本は軍備の増強に力を入れず、経済成長に専念したため、空前の平和と繁栄を享受した、と一般には考えられている。

この国家戦略は「吉田ドクトリン」と呼ばれている。敗戦後、昭和20年代に7年2カ月にわたり首相の座にあった吉田茂は、旧陸軍の復活を徹底して嫌い、GHQの圧力をはねのけて、現在に至る軽武装国家の道筋を作りあげた。

しかし、これは吉田が当初、構想した通りのものなのだろうか。

吉田が明らかに目指したのは、占領が終わり、GHQが去った後、戦前のような強大な軍隊に頼らず、軽武装でも自立して国際社会の中で生きていける国家構想だったはずだが、実は、それは未完のままではないのか。

戦後すぐ、アメリカとソ連による冷戦体制が出来上がり、1950(昭和25)年、まだ日本が占領下の段階で朝鮮戦争が始まったことが一つの契機だった。

マッカーサーの命で、吉田政権は7万5000人規模の警察予備隊を創設した。再軍備の始まりである。その後、GHQは、さらに30万人規模に増強しろと圧力をかけてきた。しかし、吉田はこれには断固、抵抗した。

吉田は、陸軍と共産主義、全体主義がなじみやすいと考えていた。

そもそも戦前の大政翼賛会は、簡単に言えば、ソ連やナチス・ドイツと同じように、一党独裁によって、意思決定を早くし、総力戦体制を作りあげていくことを目指したものだった。

だが、大政翼賛会は張子の虎で、日本では政党主導は実現しなかった。

吉田は、基本的には陸軍は国家社会主義的とみていた。その国家社会主義のもつ毒素により、中国で戦線を拡大してしまったり、太平洋戦争をはじめてしまった。英米派である吉田茂にとっては受け入れがたい成り行きだった。

マッカーサーに言われたように、朝鮮戦争で再軍備の規模を30万人にしたうえ、大陸に派遣したら、絶対に戦前と同じことが起きてしまう。過去の経験からも大陸派遣軍の統制が効かなくなる。そういう恐れがあったから、マッカーサーであろうが、従うわけにはいかなかった。

 

吉田茂、軽武装国家論の本質

それでは、要するに、吉田の軽武装論とは何であったのか。

経済復興のために軍備に投資をしていられないという事情は一つあった。

けれど、同時に、吉田は国家社会主義嫌いだった。旧陸軍の連中に再軍備をやらせたら、絶対、国家社会主義が復活する。この国家社会主義復権を恐れてマッカーサーに抵抗する。

統制の効かない陸軍が国家社会主義を作り上げてしまうことの怖さをブルジョアである吉田は分かっていた。

経済合理主義よりもこちらの方が大きな理由だった。

しかし、隣国で戦争が起きるような、冷戦対立の最前線にある東アジアで、強い軍事力に頼らず、いかにして自国の自立と安全を確保するのか。講和、主権回復は目前に迫っていた。

そこで吉田がたどり着いたのが、「弱いウサギは、長く大きな耳を持たなければならない」という考えだった。つまり独自の情報機関を持ち、情報の力を充実することで国際環境に対応すべきだということだった。

7万5000人の軍隊はしょうがないが、30万人に増強ずるのは抵抗する。それを埋め合わせるかたちで、日本版CIAを作らなければならない、というところに行き着いた。