昭和20年、横須賀海軍航空隊。左に紫電改1機、右に零戦3機が写っている

知られざる『終戦後』の空戦~8月15日に戦争は終わっていなかった

降伏決定後に戦死した若き搭乗員たち
今年も8月15日が巡ってきた。いま、日本政府はこの日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と定め、東京の日本武道館で毎年、「全国戦没者追悼式」を挙行している。8月15日を「終戦記念日」とすることは、日本の盆の風習とも相まって、戦没者、戦争犠牲者慰霊の日として広く浸透し、定着していると言っていい。
だが、いまから73年前、昭和20(1945)年のこの日、スッキリと戦いが終わったのかと問えば、答えは否である。樺太や北千島でのソ連軍との戦いはなおも続いていたし、太平洋上には、日本海軍の潜水艦がいまだ作戦行動中だった。そればかりか、日本本土上空でも日本軍機と連合軍機の烈しい空戦があり、双方に戦死者が出ているのだ。

ポツダム宣言受諾通告後に来襲した176機の米軍機

昭和20年7月26日、アメリカ、イギリス、中華民国の首脳が日本に向け、降伏を呼びかける「ポツダム宣言」を発した。日本政府は、日ソ不可侵条約を結ぶソ連の仲介による和平に一縷の望みを託し、またポツダム宣言が日本の国体、すなわち天皇を中心とする国家体制の維持について不確定な内容であったため、いったんは黙殺を決めた。

 

ところが、B-29が8月6日広島に、8月9日長崎に原子爆弾を投下、9日にはソ連が日ソ不可侵条約を一方的に破棄して対日戦に加わり、ポツダム宣言にも名をつらねる事態になると、もはや日本には、本土に敵大兵力を迎えての本土決戦か、ポツダム宣言を受諾して降伏するか、いずれかの道しか残されていなかった。日本政府は8月9日の御前会議で、「国体の護持」を条件にポツダム宣言の受諾を決定、10日、中立国スイス、スウェーデン経由で連合国に伝えられた。

8月14日、日本政府は改めて御前会議を開き、ここで天皇自らの意思でポツダム宣言受諾が決定され、終戦の詔書が発せられた。そして8月15日正午、天皇が国民にラジオを通じて終戦を告げた。「玉音放送」である。

日本がポツダム宣言を受諾したことは連合軍にも伝わっている。だが、玉音放送に先立つ8月15日午前5時30分、敵艦上機176機が、二波に分かれ、ダメ押しをするかのように関東上空に来襲、日本側の航空基地を爆撃した。霧の濃い早朝だった。

千葉県の茂原基地を発進した日高盛康少佐率いる第二五二海軍航空隊(二五二空)戦闘三〇四飛行隊の零戦15機、神奈川県の厚木基地を発進した森岡寛(ゆたか)大尉率いる第三〇二海軍航空隊(三〇二空)の零戦8機、局地戦闘機雷電(らいでん)4機がこれを迎え撃ち、三〇二空がグラマンF6Fヘルキャット戦闘機を4機、戦闘三〇四飛行隊が英海軍のスーパーマリン・シーファイア(スピットファイアの艦上機型)戦闘機1機、グラマンTBFアベンジャー雷撃機1機、フェアリー・ファイアフライ複座戦闘機1機を撃墜した。この空戦で三〇二空は零戦1機、雷電2機を失い、搭乗員3名が戦死、戦闘三〇四飛行隊は零戦7機を失い、5名が戦死している。