インパール作戦を立案・指示した「陸軍最悪のコンビ」の深層心理

本当に、牟田口ひとりの責任だったか
広中 一成 プロフィール

河辺は牟田口がすでに前線に発した命令を撤回することは、「如何に見解の相違とは謂え、高級指揮官として採るべき策ではなかった」と考えたからだった。

これは、今まさに戦闘が繰り広げられている前線を混乱させたくないとする河辺の高度な判断であったといえる。しかし、結果的に戦火が拡大したことを考えると、日本軍の現地責任者として河辺の判断が正しかったかどうかは疑問符をつけざるを得ない。

 

牟田口の「悔恨」が招いた無謀

強硬姿勢を貫き独走する牟田口と、部下を抑えることなく放任した上官の河辺。このいびつな関係のふたりが、再びコンビとして相まみえた場面が、日本軍の稀代の「愚策」とされるインパール作戦だった。

インパール作戦とは、アジア太平洋戦争後期の1944年3月、ミャンマー(当時はビルマ)にまで支配を広げていた日本軍が、隣国インドの北東部にある都市インパールを攻略するために始めた戦いをいう。このとき、河辺は現地日本軍トップのビルマ方面軍司令官、牟田口がその直属の第十五軍司令官を務めた。

ミャンマーとインドの国境は、切り立った山々の連なる密林地帯で、そのなかを進軍することは容易でなかった。それにもかかわらず、なぜ日本軍はインパールを攻めようとしたのか。

その理由のひとつが、インドから中国へつながる援蔣ルートを遮断することだった。

援蔣ルートとは、日本と戦いを続ける中国国民政府(蔣介石政権)への米英からの物資支援のことをいう。日本軍は日中戦争が長期化した原因に援蔣ルートの存在が大きいとみなし、複数あったルートを次々と遮断していった。

しかし、米英はインドから飛行機でヒマラヤ山脈を越えて中国昆明まで空輸するルートを新たに開き、中国への支援を続けた。日本軍はインパールを支配下に入れることで、インドからの援蔣ルートを完全に抑え込もうとした。

また、インパールを攻略するもうひとつの理由として、いわゆる対印施策(印はインドのこと)の実現があった。対印施策とは、インド独立派のスバス・チャンドラ・ボースらを支援して、インドをイギリスの植民地から「解放」させる方策をいう。これは当時日本政府首相を兼務していた東条英機陸相の肝いりで進められた。

あるとき、ビルマ方面軍高級参謀の片倉衷(ただし)大佐は、対印施策について河辺から次のように告げられた。

「自分が着任前、東条首相と会談したが、その節、ビルマ政策は首相として対インド政策の一環として関心があり、また大東亜戦全局の戦局指導上、ビルマ方面に期待すとの話合があり、私、河辺も対印施策に関心がある」

東条の意を受けた河辺は、ビルマ方面軍司令官として対印施策の実現を目指した。そして、東条と河辺は、インパール作戦は対印施策のきっかけをつかむものとして期待した。

もともと、インド方面への進攻は、「二十一号作戦」という名で計画された。この作戦について、はじめ意見を問われた牟田口は、作戦の実行が困難であるとして消極的な考えを示した。

しかし、これまで強気な態度を見せ続けた牟田口は、このとき自分が初めて弱気な一面を表してしまったことを悔やみ、何としてでも作戦を実現させようと心に誓った。そして、意地でもインドに攻め込むという牟田口の執念が、無謀なインパール作戦の計画が立てられる発端となった。

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