終戦わずか2週間後「東京の慰安婦」は米軍のいけにえにされた

「次から次へ、体じゅう痛くて…」
貴志 謙介 プロフィール

占領が始まる前に、政権の中枢にいた政治家や軍人、そして官僚が何を置いても、外国の軍隊による性暴力にこれほど強い恐怖感を抱いたのは、なぜだろう。国家が主導した売春施設を準備した警視総監・坂信弥は、内務省の資料のなかでこう証言している。

「東久邇さんは南京に入城されたときの日本の兵隊のしたことを覚えておられる。(略)それで、アメリカにやられたら大変だろうなという頭はあっただろうと思います」(大霞会編『続内務省外史』、地方財務協会)

軍国主義者がおびえていたのは、結局のところ、来るべき占領軍の蛮行というよりも、鏡に映った己の姿、日本軍の影だったのではあるまいか。

 

「からだじゅうが痛くて…」

8月28日、午前9時、RAAの幹部20名が皇居前広場に集合した。『R・A・A協会沿革誌』によれば、ここで全員が宮城に向かい宣誓式を行ったという。宣誓の主旨はこうである。

〈(RAA協会は)戦後処理の国家的緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の難事業を課せらる。(略)『昭和のお吉』幾千人かの人柱の上に、狂瀾を阻む防波堤を築き、(略)「国体護持に挺身せんとするに他ならざることを重ねて直言し、以て声明となす〉

敗戦国であるドイツやイタリア、あるいはソ連に占領された東ヨーロッパの国々にも、占領軍を相手にする売春婦は大勢いた。しかし、国家が号令を発して、莫大な予算を投じ、官僚がプロジェクトを組み、「国体護持」のために女性を犠牲にするという“理想”を高らかに掲げた国はほかにない。

8月27日、RAAは、占領軍の上陸地点に近い品川の大森海岸に「慰安所第一号」として、「小町園」を開店した。ポツダム宣言の受諾からわずか2週間しかたっていない。

50人の女性、それも大半はシロウトの女性が送り込まれ、10畳、20畳の大部屋をカーテンや屏風で仕切り、30ほどの部屋が作られた。待ちかねたように、米兵がどっと押し寄せ、障子や襖を蹴破って、土足のまま押し入ってくる。女たちは恐怖のどん底へ投げ込まれた。

「恐怖におびえるまもなく、兵隊が入ってくるなり私を抱くと、しびれるほど唇を吸う。(略)入れ替わりに、つぎの兵隊がくる。(略)つぎからつぎへと抱いては送り、送っては抱き、(略)からだじゅうが痛くて……。」(『東京闇市興亡史』より)

RAAが横須賀に設けた慰安施設「安浦ハウス」(米軍資料)