御巣鷹山の墜落現場で救難活動にあたる自衛官、警察官、消防団員たち

日航ジャンボ機墜落事故で救難にあたった上野村村長を支えた海軍魂

村長は、特攻を拒否した零戦隊長だった
33年前の夏、日航機123便が群馬県の御巣鷹山に墜落し、死者520人という未曾有の犠牲者を出した。その墜落現場となった上野村の村長は、奇しくも飛行機とは縁の深い男だった。この年からちょうど40年前、日米開戦の日にフィリピンの米軍基地を空襲して大戦果を上げ、以降、連合軍機を圧倒し続け、「無敵零戦」神話をつくった名戦闘機隊長だったのだ。上野村村長を15年にわたって取材した神立氏によれば、戦争で多くの戦友、部下をうしなった村長は、誰よりも墜落事故の犠牲者に寄り添う気持ちが強かったという。

「日本のチベット」で育った自然児が海軍兵学校へ

昭和60(1985)年8月12日、午後6時56分頃、乗員乗客524人を乗せて羽田空港から大阪に向かった日本航空123便ボーイング747SR機が、群馬県多野郡上野村、長野県との県境にほど近い御巣鷹山に墜落。女性4人をのぞく全員、520人が死亡するという、航空史上最大最悪の事故が発生した。

 

翌8月13日、事故現場が発見されると、空陸より現地入りしたマスメディアによる報道合戦が繰り広げられたが、そのなかで、現場となった上野村村長の事故への対応の鮮やかさ、救難指揮の見事さが話題を呼ぶようになっていた。

村長の名は黒澤丈夫(たけお)。その昔、太平洋戦争中は零戦隊を代表する指揮官として、開戦劈頭、台湾・高雄基地からフィリピンの米軍基地空襲に出撃したのを皮切りに、おもに南西方面(インドネシア~オーストラリア北部~西部ニューギニア)を転戦。日本軍が優勢だった緒戦期のみならず、敗色濃厚となった戦争末期にいたるまで、精鋭部隊を率いて出色の戦果を挙げ続けた人である。終戦時、海軍少佐。

平成8(1996)年、上野村村長室にて 撮影:神立尚紀


 
戦後は郷里・上野村に帰り、村長を10期40年、さらにその間、全国町村会会長を4年にわたりつとめた。
 
私は、平成8(1996)年春、永田町の全国町村会で初めてインタビューして以来、上野村にも何度か通い、平成23(2011)年、亡くなる直前までの15年間、取材、交流を続けた。そこで、事故発生から33年にあたり、黒澤村長が、地元自治体首長としてなにを見、いかに動いたか、零戦搭乗員としての体験から語りおこしつつ振り返ってみたい。

黒澤さんは大正2(1913)年12月23日、群馬県の西南端に位置する多野郡上野村乙父(おっち)に生まれた。上野村は、江戸時代には徳川幕府の直轄領・山中領上郷と呼ばれていた土地で、南は埼玉県秩父、西は長野県南佐久に隣接する。

御荷鉾(みかぼ)・荒船連山や三国連山など1000~2000メートル級の山々に囲まれ、険しい山野が村の総面積186.86平方キロの90パーセントを占める、典型的な峡谷型の山村である。集落は、村のやや北寄りを東西に流れる利根川水系の神流川(かんながわ)に沿った谷あいに点在しているが、昭和初期にはすでに「日本のチベット」と呼ばれていたほど、交通不便な山奥の僻地だった。

「当時は教育も生活も、いまでは考えられないほど地域差が激しく、上野村は、活字というと学校の教科書でしか読む機会のないような遅れた村でした。しかし、四季は変化に富んで美しく、周囲には広い遊びの天地が待っている。私はこの自然に囲まれた土地で、遊びたい放題の自然児として育ちました。野山で小鳥の巣を探したり、川で魚をとったり、ジバチの巣を掘りとってハチの子を炒って食べたり、秋には栗の実を拾って皮をむいて食べたり……」

と、黒澤さんは回想する。群馬県立富岡中学校を経て、昭和7(1932)年、当時、最難関といわれた海軍兵学校に一年浪人して入校。

「入校式では、校長の松下元少将が訓示で、兵学校教育の目標について、『科学者たる武人を養成するにあり』と明言されたのが印象的でした。海軍の兵科将校は、文武だけではなく、科学の知識を備えなければならない。海軍の戦いが、最先端の兵器で行われることを思えば当然ですが、精神偏重ではなく、科学に根拠をおいた教育が主であったことはぜひ知ってもらいたいところですね」

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