「子どもの主体性」や「子どもの権利」という言葉に対して、「子どものわがままを認めてはいけない」「子どもには権利などない」「子どもにはガマンをさせなければ良い大人にならない」というような言説はまだ世間に流れています。。自身が抱いている思想信条とは関係無く、私たち大人は、そういった幼児教育と名乗るものの正体を見極め、これからの時代を生きるわが子に相応しいかどうかを冷静に考えなければならないのだと思うのです。

そういった教え込みスタイルの「教育」は、本当の意味での「教育」ではありません。それは、「自分で考えることのできる子」を育てるのではなく、「大人にとって便利な子」を育てているとしか思えないのです。道徳心や思いやりを学ぶというのも、一方的に先生から「教えられる」のではなく、子ども同士の人間関係を通して、傷ついたり傷付けられたりしながら、相手を思いやることの意味を自分で感じ、理解しなければ「表面的なもの」にとどまってしまいます。

そして、「自分で考える」ことができない教育というのは、大人たちが良いと思っている「思想信条を体現するもの」のみならず、「教育」という名の下で押し付ける「調教」のようなやり方にも、共通して言えるものです。

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「天才を育てる園」は本当に良いのか?

テレビではしばしば「天才を育てる幼稚園・保育園」といった特集番組が放映されることがあります。幼児教育・保育関係者としては、どんな「天才」を育てるのだろうかと興味津々でワクワクしながら観るのですが、たいていの場合、「高い跳び箱を跳べる」「宙返りが自在にできる」「漢字入りの絵本を読める」「計算ができる」「目隠しをして楽器を弾ける」「絶対音感が身につく」「カードをめくって見せると瞬時に読める」……といったことばかりに終始することが多いのです。

しかも、子どもが泣いてもとことん練習させたり、競争をあおったり、厳しい言葉を投げかけたりするシーンも多く見受けられて、こんなものが本当に「天才」を育てる教育なのか……といつもがっかりしてしまいます。

そもそも「天才」とは何なのでしょう? どんな人のことを指すのでしょう? 大人が思っているよりもいろいろなことが出来る、と言う点で「天才」だというのであれば、子どもというのはある意味、誰でも「天才」なのではないでしょうか。ちょっと競争心をあおり、動物と同じようにご褒美を用意して「訓練」したり、ご褒美をエサに厳しく「調教」したりすれば、どんな子どもも、跳び箱でも宙返りでも楽器演奏でも、ある程度のところまでは上達するはずです。

しかし、断言できるのは、それは「幼児教育」ではないし、それができたからといって「天才」なんかじゃないということです。高い跳び箱を跳べるようになった子どもは、確かに自尊心は育ち、自信を付けているかもしれません。でも、人生の中で跳び箱をすることなど、小学校や中学校の体育の授業だけ。いくら高い跳び箱が跳べるからといっても、それで人生が決まるわけでもないし、幸せな人生が送れるわけではないでしょう。

確かに、親は誰でも、わが子に幸せになってほしいという願いを持っています。特に自分ができなくて苦労したことは、子どもには苦労してほしくないと思うものです。そのためには、小さいうちから歯を食いしばってでも努力したほうがいい、できれば他の子より抜きんでて優秀な子に育って欲しい……というように、あれこれと期待を膨らませてしまうこともあるのかもしれません。

そのためにはどのように育てれば良いのだろうと通っているときに、大人でも飛べないような跳び箱を、子どもたちがポンポン跳んでいく様子を観れば、驚いて「スゴイ!」と思ってしまうのも当然かもしれません。

でも、そこで冷静に考えてみてください。子どもは喜んで厳しい訓練をしたいと望むでしょうか? 子どもの幸せにつながることでしょうか? 「子どものため」と言いながら、実は親の安心や、親の欲目のためのものではないでしょうか? 

もちろん、2歳からスケートを始めた羽生結弦選手や、3歳から体操を始めた内村航平選手のように、早くからトレーニングをして、素晴らしい成果を出した人はいます。自分で弦を押さえて音を作りだすバイオリンのような楽器では、3歳くらいからレッスンを受ける必要があるという話もききます。

ただ、何でもかんでも幼いうちに始めれば良いわけではなく、長く続けるためにはやはり子どもたちが「楽しい!」「もっと上手くなりたい!」というような「やりたい」気持ちがなければなりません。「やりたい」気持ちがあるからこそ、厳しい練習でも耐えられるし、それが楽しいと思えるのだということを、親は決して忘れてはなりません。