司馬遼太郎が「魔の季節」と呼んだ時代に、野間清治が飛躍した理由

『大衆は神である』(13)
魚住 昭 プロフィール

フランス革命もかくや

9月5~7日の事件の逮捕者は約2000名、起訴者308名、警備側の負傷者約500名、群衆の死者17名、負傷者2000~3000名の可能性が高いという。

『萬朝報』の論説記者・円城寺清はのちにこう語っている。

官邸焼打ちの警報に接し、アヽ、アヽ、人心の激昂と言ふものは実に恐ろしいものだ、誰れが煽てた、指図したと言ふでもなく、官憲の出やうに依つては斯やうにも成り行くものか。革命と言ふものは斯くの如くにして行はれるのだらうと、徐ろに仏蘭西革命当時の状況などを想ひ起し、内務大臣官邸の火焰が今目の前に見ゆるやうな心地が仕て、何となく一種異様の感愴に打たれた〉註①

ちなみに円城寺は日露開戦前、都下最大級の発行部数を誇った『萬朝報』の社論の転換に深くかかわった男である。当時の『萬朝報』では、クリスチャンの内村鑑三(うちむら・かんぞう)と社会主義者の幸徳秋水(こうとく・しゅうすい)、堺利彦(さかい・としひこ)が看板記者として日露戦争に反対する非戦論の論陣を張っていた。

だが、いつまでたっても満州から撤兵しないロシアに対する国民感情が悪化するにつれ、非戦論への批判が強まり、円城寺をはじめとする『萬朝報』の主戦論派が台頭した。

社主の黒岩周六(くろいわ・しゅうろく)(涙香(るいこう))は明治36年(1903)10月、円城寺らに押されて主戦論に転換した。このため内村・幸徳・堺の三人は『萬朝報』を退社せざるを得なくなった。

 

演説と新聞が人心をあおり立てる

明治38年の日比谷の国民大会が暴動にまで発展した原因は何だったのか。真っ先に挙げなければならないのは、講和に反対する新聞各紙の激しい論調だろう。

陛下の有司(官僚)は陛下の聖意に背き……陛下の国民と共に期待し給える帝国の光栄を傷け……泣血悲憤の至に堪えず」(『大阪朝日新聞』9月1日)註②

嗚呼、国民は閣臣元老に売られたり」「呆れ返った重臣連」(『萬朝報』9月1日)

元老、内閣の官爵、位勲を褫奪(ちだつ=剝奪)せよ」(『報知新聞』9月2日)

論説だけではない。たとえば、地方で開かれた講和反対の県民・市民大会などの運動は、ほとんどすべてが新聞社もしくは新聞記者グループを軸に形成された。そういう意味では、まさに新聞があおり、新聞人が支えた講和反対運動だった。

講和問題同志連合会の幹部のひとりでジャーナリストの高橋秀臣(たかはし・ひでおみ)(のち衆院議員)は、従来の日本では欧米各国のようには新聞と演説の効能が重要視されていなかったが、と断ったうえでこんな興味深い指摘をしている。

講和問題が起こると、わが同志たちは、天下のいたるところで演説会を開いて人心を鼓舞し、また新聞は全国津々浦々で筆を振るって民論の発揚につとめた結果、人心はたちどころに帰一して世論は瞬間にできあがった。その勢いの盛んなことはまことに空前のことだった。これは実に演説と新聞の効能であって、従来世に重要視されていなかったこの二大要具が偉大な効能を国政のうえに打ち立てるにいたった〉註③

司馬遼太郎のいう「魔の季節」は、演説と新聞が人心をあおり立てるポピュリズムの時代とともに始まったのである。                 (つづく)

註① 酒田正敏『近代日本における対外硬運動の研究』(東京大学出版会、1978年)より引用。
註② 筒井清忠『戦前日本のポピュリズム』(中公新書、2018年)より引用。以下同じ。
註③『近代日本における対外硬運動の研究』より引用。意訳。このほか日比谷焼き打ち事件全体について、藤野裕子『都市と暴動の民衆史 東京・1905―1923年』(有志舎、二〇一五年)も参考にさせてもらった。