司馬遼太郎が「魔の季節」と呼んだ時代に、野間清治が飛躍した理由

『大衆は神である』(13)
魚住 昭 プロフィール

そこへ東京市参事会(明治期の市制にあった会議制の執行機関。市長、助役、市会から選出される参事会員の三者で構成)のメンバー数名が駆けつけ、警察が市に無断で公園を封鎖したことに抗議し、警官を押し切って入園した。そのとき群衆も公園内になだれ込んだ。

つづいて「嗚呼(ああ)大屈辱」などと書いた大旗とともに河野広中(こうの・ひろなか)(自由民権運動の著名な闘士)ら講和問題同志連合会の幹部が入場した。同会は、外交における強硬政策(当時「対外硬」といわれた)を主張する対露同志会、黒龍会など9団体が集まってつくられた連絡会議である。

午後一時、「十万の碧血(へきけつ=忠義を貫いて死んだ者の流した血は、三年経てば地中で碧玉と化すという)を奈何(いかん)せん」などの垂れ幕をつけたバルーンが上がるなか、喪章のついた小旗5000本が配られた。河野が講和反対の決議案を読みあげると、満場の拍手喝采で可決された。

この国民大会は画期的なものだった。屋外集会はそれまでにもあったが、規制が厳しかった。そのため公園などで壮士が撃剣・旗の争奪戦を行う運動会や、主催者が芝居・剣舞を見せる労働者懇親会を開く形にせざるを得なかった。いずれも民衆は単なる見物人にすぎない。

ところが日比谷の国民大会はちがった。不特定多数の民衆が講和反対の決議案を可決する「主体」として集まった。つまり、日本で初めて政治的な意思を持った大衆——司馬によれば「政府批判という、いわば観念をかかげて任意にあつまった大群衆」——が出現したのである。それは、やがてはじまる大衆社会の先触れであり、野間清治が飛躍する舞台の幕開けでもあった。

 

「暴状実ニ惨憺タル」

大会後、約2000人の一団は公園を出て、二重橋前で警官隊と乱闘した後、京橋の新富座(しんとみざ)(劇場)に向かった。新富座では午後二時から講和問題同志連合会の演説会が開かれる予定になっていたが、正午ごろにはすでに入場者約2000を超え、会場周辺の道路は人波で埋まった。

午後1時半、麴町署長が演説会の解散を命じた。すると、人々は総起立して「解散の理由を示せ」と激怒して乱闘になり、「暴状実ニ惨憺タル」(警官の報告書)状況になった。

新富座の乱闘は午後五時ごろまでつづいた。この間、隣の新駒屋(芝居茶屋)の二階には講和問題同志連合会のメンバーで『萬朝報(よろずちょうほう)』の論説記者である円城寺清(えんきょうじ・きよし)(天山[てんざん])ら十数名がいた。彼らは路上の群衆に向かい、扇を開いて上下左右にあおっていた。

[写真]円城寺清(国立国会図書館「近代日本人の肖像」より)円城寺清(国立国会図書館「近代日本人の肖像」より)

一方、新聞のなかでほとんど唯一政府側に立った国民新聞社(京橋区日吉町[現在の銀座8丁目]。明治23年[1890]に徳富蘇峰が創刊)には、午後1時半ごろ4000人が押し寄せ、石などを投げ、乱闘がつづいた。その結果、屋上看板は外され、1、2階のガラス窓・扉は全部壊され、輪転機2台が破壊された。

日比谷公園正門前の内務大臣官邸も群衆の襲撃を受けた。午後2時ごろ、日本全権の小村寿太郎(こむら・じゅたろう)のさらし首が描かれた張り紙を警官がはがそうとした。それに群衆が激怒して警官に暴行を加えた後、官邸に逃げ込んだ警官を追って邸内に石を投げ込み、乱入・放火した。警察は抜刀隊を組織して反撃したので、群衆も仕込み杖、棍棒で抵抗した。

警官の抜剣に怒った群衆は、その後暴行を繰り返し、7日までに警察・分署11ヵ所、派出所258ヵ所を破壊・放火した。東京市内の派出所の約7割が焼失した。