司馬遼太郎が「魔の季節」と呼んだ時代に、野間清治が飛躍した理由

『大衆は神である』(13)

上州の貧しい家から、東京帝大書記を経て、戦前日本を席巻するメディア・コングロマリット「大日本雄弁会講談社」を生み出した男——野間清治。

その豪快なビジネスセンスと、鮮やかな立身出世を賞賛する文献は少なくない。しかし彼の生い立ちやほんとうの人柄は、これまであまり詳らかにされてこなかった。

大河連載「大衆は神である」では、ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、日本の出版業界と近代社会の黎明の光と陰を追う。

会社を立ち上げる前の、ずぼらで奔放でありながら人を引き付けていた野間清治の姿を伝えてきた第一部に続き、第二部がスタート。講談社創立の原点となった雑誌『雄弁』創刊前後を描く。

 

「魔の季節」

司馬遼太郎(しば・りょうたろう)は、明治38年(1905)から昭和20年(1945)までの40年間を日本近代の「魔の季節」と呼んでいる。

その終点が8.15の敗戦であるのは言うまでもない。が、出発点を明治38年とした理由は何だろう。司馬はエッセイ集『この国のかたち 1』(文春文庫)に次のように書いている。

ここに、大群衆が登場する。
江戸期に、一揆はあったが、しかし政府批判という、いわば観念をかかげて任意にあつまった大群衆としては、(日露)講和条約反対の国民大会が日本史上最初の現象ではなかったろうか。

調子狂いは、ここからはじまった。大群衆の叫びは、平和の値段が安すぎるというものであった。講和条約を破棄せよ、戦争を継続せよ、と叫んだ。「国民新聞」をのぞく各新聞はこぞってこの気分を煽りたてた。ついに日比谷公園でひらかれた全国大会は、参集する者三万といわれた。かれらは暴徒化し、(略)政府はついに戒厳令を布(し)かざるをえなくなったほどであった。

私は、この大会と暴動こそ、むこう四十年の魔の季節への出発点ではなかったかと考えている。この大群衆の熱気が多量に――たとえば参謀本部に――蓄電されて、以後の国家的妄動のエネルギーになったように思えてならない

日比谷公園の大群衆

この国民大会と暴動の模様を、主に帝京大教授・筒井清忠(つつい・きよただ)の『戦前日本のポピュリズム』(中公新書)に拠りながら再現してみよう。

大会当日の明治38年9月5日、前夜に大会禁止を決めた警察は午前8時から日比谷公園の各門に警官約350名を配置した。しかし、午前11時、数千人の群衆が集まり、統制できなくなった。人々はこの日、米国のポーツマスで調印された講和条約でロシアからの賠償金をとれなかったことに怒っていた。

警察は公園内にいる者を門外へ追い出し、丸太を組んだ柵を設けて各門を封鎖したが、正午には群衆が数万に膨れあがった。午後0時半、群衆と警官の間に乱闘がはじまった。