杉田水脈衆議院議員が月刊誌に寄稿した記事に対し、7月27日には自民党本部前で大規模な抗議活動も行われた。ゲイであることを公表している歌人で、台湾在住の小佐野彈さんが、自らの体験と今回の抗議活動を踏まえて率直に、冷静に語る。

在外邦人として恥ずかしい

『新潮45』2018年8月号に掲載された自民党の杉田水脈衆院議員の論説(と呼べるかどうか怪しいが)『「LGBT」支援の度が過ぎる』に関して、まだ盛んに議論が交わされている。

とりわけ、「LGBTは子どもを成さないから生産性がない」と断じた箇所に関しては、LGBTに対して「生産性」という言葉を用いた衝撃もあって、喧しい議論はしばらく止みそうもない。

僕自身、LGBTを含む性的少数者の当事者のひとりとして、杉田議員の「論説」を決して受け容れることはできない。そもそも、人口や出生率に関する議論において、「生産性」という用語は使われないし、使うべきではないのだ。「生産性」という言葉がこのように使われることに関して、ゲイとしても、また経済学を専門的に学んだ者としても、きわめて残念に思う。

そしてなにより、「LGBT差別はない」、「LGBTは生産性がない」と容易に言えてしまう人権感覚の持ち主が、僕の祖国の立法府に名を連ねる国会議員である、ということは、在外邦人として率直に言って恥ずかしい。

7月27日には、東京レインボープライド(TRP)によって、自民党本部前で大規模な抗議活動が行われた。報道によれば、約5000人が参加したという。僕が暮らす台湾はLGBTの人権擁護もかなり進んでいる。もし与党議員から同じような言葉が発せられたとしたら、おそらくデモの参加人数は5000人ではきかない。一桁違うことになるだろう。

意見が異なることと排斥とは別

ちなみに僕はいま、この原稿を旅行先のドイツで書いている。夏休みを兼ねて、ワーグナーのオペラで有名なバイロイト音楽祭に来ているからだ。バイロイト音楽祭で上演される、いわゆるバイロイト版と呼ばれるワーグナーのオペラや楽劇は、かなり実験的かつ過激な演出で知られる。

初日の昨日は、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を観劇した。演出はかなり際どいもので、ドイツにおいては非常にデリケートなユダヤ人問題を扱い、しかも舞台のセットがナチス戦犯の審議が行われた「ニュルンベルク裁判」を模している、という政治的なものだった。

1945年11月から1946年にかけて行われたニュンベルク裁判。ナチ戦犯のうしろにはヘルメットを着用した監視がついた Photo by Getty Images

カーテンコールでは、演出に対してブーイングと喝采が交錯した。僕の後列のお客さんも、左後ろのひとは喝采し、右後ろのひとはブーイングしていた。評価は、真っ二つ。そして、幕間に、その評価について喧々諤々とやりあう。それもバイロイト音楽祭の醍醐味だ。

このようにさまざまな意見や主張が交わされるのは、健全な市民社会においては当然である。

しかし、ドイツの市民社会においては、左右や保革の対立を超えた、ひとつの重要なコンセンサスがある。それはナチスによるホロコーストやユダヤ人排斥に賛意を示すことは、決して許容されない、ということである。