78歳で倒れ、手術を受けた父。息子で40代の「ぼく」は、ぶっきらぼうで家族を顧みなかった父にずっと反発を覚えていたが、父に前妻がいたこと、そして自分の腹違いの兄が存在することを聞かされて以来、家族の過去を調べていた。
父が経営していた小さなパン屋で、長年働いていた谷川という男性。「腹違いの兄」である健太郎さんのアパートを訪ねたものの、遠くから眺めることしかできずにいる「ぼく」は、谷川氏が語った父の話を思い出していた。
現役証券マンで作家の町田哲也氏が、実体験をもとに描くノンフィクション・ノベル『家族をさがす旅』、衝撃の最終回。
谷川氏は、駅ビルにある喫茶店に入るとコーヒーを頼んだ。
「お店やめるって聞いたときは、ビックリしたよ」
「儲からなくなってからですね」
「そう。それで工場を自宅の庭に移して、毎日通ったんだ。でもあの頃からかなあ、オヤジさん、パンを作るのも手を抜くようになって。材料も減らしたから、味が変わっちゃったんだ」
「そんなことがあったんですか」
当時父は店舗での販売をやめて、高校での販売だけに絞っていた。市内でも僻地にある高校なので、校外に昼食を買いに行く生徒は少ない。
天気が悪い日はパンの売れ行きが良いらしく、雨が降ると喜んでいた。比較的安定した売上げが見込める環境だったので、手を抜いていたのだろうか。
ぼくには谷川氏の指摘が驚きだった。谷川氏には精神障害があり、発作を起こして工場で倒れたこともある。あくまでも仕事はいわれたことをこなしているだけだと思っていたが、父の仕事ぶりにしっかりと気持ちの変化を読み取っていた。
「お酒の飲み過ぎだったんじゃないかな」
「そんなに飲んでたんですか?」
「高校の販売が終わって帰ってくると、もう仕事は終わりでしょ。俺も昼過ぎから焼酎なんかをよく飲ませてもらってたな」
ぼくが気になったのは、谷川氏が父のことを「オヤジさん」と呼ぶことだった。昔はそんな呼び方を意識したこともなかった。
谷川氏は、父が作ってくれた食事が忘れられないという。今でも父が得意としたつまみを、自分で作ることがある。玉ねぎを薄く切って、かつおぶしとマヨネーズとしょうゆをかけて、七味をふる。簡単なものばかりだ。
高校での販売だけになってからは、勤務時間が減り、谷川氏の収入も減少した。学校なので、夏休みなど長い休みも多い。そんなときは、二人で宅配のアルバイトをした。
記憶に残っているのは、ある会社のカタログをポストに投函する仕事をしたときのことだ。工場の奥に積まれたカタログを車に運ぼうとすると、やらなくていいという。
「こんなの捨てたって、バレやしねえよ」
タバコの煙を吐き出しながらにやりと笑う父を見ていると、なぜかすごい人だと思えたものだ。
谷川氏は父に何度か、もう来なくていいといわれたことがある。材料の分量を間違えたとか、計算ミスをしたとかいった理由だったのではないか。そんなときはぶらぶら散歩して時間をつぶした。
「もっと素直に謝ればよかったな」
「あんなに殴られてたら、そんな気分になれないでしょ」
「そうだけど、仕方ないでしょ。あの頃はそれが普通の教育方法だったし、自分ももうちょっと我慢してればよかったんだ」
そんな谷川氏の言葉が意外だった。
「今の若い人たちは、苦労をしたがらないでしょ。つらいこともやってみたほうがいいんだ。恵まれ過ぎなんだよな」
それはほかでもない、父の言葉だった。鬱陶しい存在だったかもしれないが、いつの間にか谷川氏も父と同じ目線で世のなかを見るようになっていた。早くに父親を亡くした彼にとって、「オヤジさん」は本当に父のような存在だった。ここにも父の子どもがいた。