なぜ日本人は代表チームを「サムライ」と呼びたがるのか

あなたを駆動する「物語」について11
赤坂 真理 プロフィール

「テンノウの名のもとに、サムライシステムが完成したこと」

それは、自民族が自民族を滅ぼすようなシステムとなった。

そしてその「サムライシステム」が完成したときに、日本にはすでにサムライなどいなかった。

その責任を、誰がとっただろう?

今に至るまで、誰もとっていない。

責任者の座、そこは空白だ。

実際問題それはとるのが最もむずかしいタイプの責任で、だからこそみんなが忘れたふりをした。忘れられるはずのないことまで。

そういうことをしたとき、人間は狂ってしまう。

日本人は静かに発狂した。

しかしそういう責任の在り方を洗練させてきた、現在も発展させているのが日本の歴史、というふうにも、言えるのだ。

サッカー日本代表の西野監督の、グループリーグ最終戦、ポーランド戦の選択には感動した。それは衝撃と言ってよかった。

「サムライ」的でなく、「テンノウ」的でもない在り方を、見た気がする。

「潔く美しいのがサムライ」というパブリックイメージを、西野監督は捨てたか、最初から持たなかった。「テンノウシステム」的でもなかった。つまりは、下の者に自分の言葉を忖度するようしむけなかった。

「自分の言葉に責任を持つ」とは、こういうことだと思った。言う以外の解釈の余地が、派生しないタイプの言葉の使い方。「コマンド」とはこうあるべきものだ。

こうしたすべてを、わたしは初めて、はっきりと目に見えるかたちで、見た気がする。スポーツチームとは軍隊のようであればなお、先の戦争との対比をおもった。

わたしはそのことに希望を感じる。

競技スポーツも悪くないと、そのとき、思う。

(つづく)

愛と暴力の戦後とその後
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