なぜ日本人は代表チームを「サムライ」と呼びたがるのか

あなたを駆動する「物語」について11
赤坂 真理 プロフィール

近代日本の悲劇

日本人が「集合意識的な本能ですること」。それは、「天皇を中心とした意思決定システム」を真似ることだと思う。

アメリカン・フットボールの不祥事は、これとそっくりだった。モリカケ問題の公文書変造事件も、これとそっくりだった。

忖度のしもべが、忖度を弱者に強要する。しかし強要したものもまた、より大きな枠組みで忖度のしもべなのである。

トップはどこにいるのか? わからない。絶対強者を生み出さない、内的な争いの少ない統治方法として、この考えに利点がないわけではない。

が、これはひずみを生んでいく。見えない怨嗟を生んでいく。そしてその怨嗟の向けどころがないタイプの怨嗟である。

わたしたちは日々「テンノウシステム」の中で暮らしている。

対外的なシンボルとしてわたしたちは「エンペラー」を避けるが、体内的にはそのシンボルを多用する。意識にものぼらないほど多用する。

対外的に天皇を出し、日本を Imperial Japan などと言おうものなら、まずいのは知っている。これは大日本帝国だ。大日本帝国好きでさえ、外国人につっこまれるとやっかいなので、これは引っ込めるだろう。

日本人の多くが、無意識にも近現代の歴史を恥じ、あるいは語るのを厄介に感じ、それについては口を閉ざさなければならない状況を持っている。

そしてそれを雪ぐイメージとして、「サムライ」を持ってくるのではないか?

しかし、「サムライ」と「エンペラー」が合体したところにこそ、日本史上の、最大の悲劇はあったのだと、わたしは思う。

サムライのイメージなら、汚れていない、らしい。

まあ、サムライが外国と戦争したわけではないから、外国人にとって、サムライのイメージはクリーンだ。日本人の中にも、サムライはクリーンというような合意がある。

なぜなら、「サムライは潔い」「潔く散る」から。

それは日本人にとっても美徳とされる。

しかし。

われわれは「潔さへの信仰」において、おびただしい屍の山を築いてきた民族ではないのか!?

 

テンノウの名のもとに…

不思議なことに、昭和20年(敗戦)までの昭和というのは、近代が完成したというよりは、「江戸時代(サムライシステム)が完成した」ような時代だったとわたしは思う。エンペラーの名のもとに、サムライシステムが完成している。

それを考えると「明治で日本は近代国家の仲間入りをし」という、教科書に書かれていた文言もあやしい。それは大きな封建制国家なのだから。

でなければ、なぜ、一般人に至るまで、捕虜になるよりは自死を選ぶよう勧められたりした? 生き延びるより華々しく散ることを美徳とされたりした? 捕虜に対しては、ハーグ陸戦条約で取り決めがあった。合理的には、生き延びることを優先するなら、捕虜になったほうがいい。なぜ、人口の数%だったサムライの作法を、津々浦々の人までまねるよう、指導され、それは完成してしまった? そしてそのおそろしい結末の責任を、誰かがとった?

エンペラーの名のもとに、サムライの作法が強要されたとき、日本史に壊滅的なことが起きた。

わたしたちは、敵に敗れるよりも前に、そのシステムで壊滅的なダメージを受けた。

少なくとも、そうでなかったら、ここまでひどい負け方はしなかったと思う。

負けた後に、「アメリカより隣組が怖かった」とは、言わなかったと思う。