なぜ日本人は代表チームを「サムライ」と呼びたがるのか

あなたを駆動する「物語」について11
赤坂 真理 プロフィール

わたしは、政財界、教育界などを含めた日本の指導者で、「全責任は自分にある」という姿勢で、じっさい「自分にだけ責任があるカードを能動的に切った人」を、初めて見たのである。

たとえば原発事故で、責任をとった人を見たことがない。法によって裁かれた人も見たことがない。経済政策で、責任をとった人を見たことがない。政策の失敗で責任を問われた人を見たことがない。国民が答えを出す、と、数で勝る与党が多数決選挙の時に言う。それには選挙システムという別の問題がある。では司法は何をしているのか? 三権分立は本当に機能しているのか? 

バブル破綻の責任をとった人を見たことがない。責任を問われた人さえ、見たことがない。やはりそもそも、誰がそれを選択したのか、それを、誰も、知らない。関係者でさえよく知らない。それは嘘ではない。

巨大で集合的な「忖度システム」が働いて、誰もが誰もを読み合って、半端にリスクをとりつつ、リスクを回避するうち、誰もの手の届かないところにあるシステムが地滑り的に動き続けて、破滅が起きてしまったかのようだ。天災のように。誰もそれを止めることができなかったし、本気で止めようとも止められるとも思わなかった。戦争だってそうだった。

そこには「日本」という集合の怪物があったかのようである。日本人の一人として、これを言うのは苦しいのだが、そうである。

日本とはあたかもひとつのシステムとして、日本人にさえ止められないものなのだ。

その実感を多くの日本人が抱いているとしたら、それは、誰か独裁者がいるよりも、おそろしいことだ(安倍首相は、独裁者というより独裁者の傀儡であって、実は独裁者とは程遠い)。

「責任を誰もが逃れられる」という、嘘のような魔法的システムを、日本という国は時間をかけて洗練させてきた。

その結果として今があり、「今」とは、ずっと古い物語に駆動された「結果」である。

どこがどう魔法的だったか。それは権威(天皇)の利用のしかたに秘訣があったのだけど、そのことは後にする。

 

すごいものを見てしまった

西野監督の選択は、複数のまるでちがう層からできていて、興味深かった。それだけに、むずかしくもあったと思う。

ひとつは、嗅覚ともいうべき勘。

1点負けている自分たちのゲームが、このままである予感。仮に自分たちが負けても自分たちの決勝リーグゆきをくれる他のゲームの内容もまた、このままの予感。

「点の『匂いがしない』」という表現がじつに面白かった。ふたつの別々のゲームへの自分の嗅覚を、まずは信頼する。勘なのだが、希望的観測の感じがあまりないのが信用できる。

もうひとつは、対極的に冷静な点数計算。負けても決勝リーグに行ける上記の条件が、失点1までであること。持っているカードを全部出して計算してみる。そうすると、フェアプレイポイントで、かろうじて勝つ。ここは冷徹な計算である。

だったら失点1に抑えることに、持てるリソースのすべてを使う。そこに半端なリスクヘッジもしない。あわよくば点もとれたらなどという半端な布陣にしない。

その上で。まったくコントロールの及ばない他者に、働いてもらう。その時点で、別のゲームをする二者の関係が、「状況」に含まれてくる。この「状況」すべての中に、勝ちを見出そうとする。

彼はそれを「他力」と呼んだのだけれど、わたしには「他力」という言葉は、「他人頼み」というよりは、仏教のそれのように感じられた。

「他力本願」とは、もともとは、他人頼みということではなく、「仏の本願で人が生きている」ということである。その意味ですべてが平等であり、すべての人は人を超えた大きなものの中で生きている。

「神頼み」と言えばその境地かもしれないが、コントロールできるところまでをしきって、あとのコントロールを手放す。最後に手放すけれど、手放すということも含めて自分の選択であり、その責任は引き受ける。これは非常に謙虚な人間の態度であると思う。もともとすべてをコントロールしきれるものではなく、そう思えるとしたら傲慢である。

「他力」とは、「他人」というよりは「状況」すべて。大きな「渦」か「波」のようなもの。「縁起」のようなもの。「予測」はできても、「関与」はできない。が、実は自分も他者も、何か大きなものの一部であるような感覚.....実をいうとここがいちばん面白かった。

そして、それで決勝リーグに進もうと進めまいと、批判される内容なのを承知して、それを選んだこと。「感動をありがとう」などとはまちがっても言ってもらえないゲーム内容を、消極的でなく、積極的な手として、選んだこと。 

そしてこのすべての責任を、一人の人間が、引き受けるということ。

よくわからないが何かすごいものを見てしまった、という感覚があった。

戦争のときに、こういう計算ができる指揮官がいたら、あんなにひどく負けることはなかっただろうと思う。