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なぜ日本人は代表チームを「サムライ」と呼びたがるのか

あなたを駆動する「物語」について11

ロシアW杯のグループリーグ最終戦で西野監督が見せた采配には、賛否両論あった。日本代表は負けているのに、点を取りに行かなかったのだ。作家・赤坂真理さんは、あの選択に感動したという。いったいなぜ?

競技スポーツで不祥事が続く理由

競技スポーツの不祥事が目立つ。

それは、競技スポーツというものの特質によるのではないかとわたしは考えている。

ルールが簡単で、勝ち負けがはっきり出る。勝者の栄誉や報酬がはっきりしている。指揮系統が単純で、命令の効果が出やすい。仮に「不正の費用対効果」というものがあったとして、競技スポーツの世界では、そのうまみが大きいのではないか。

ゆえにスポーツの世界で起きているパワーハラスメントは、どこにでもありうる組織や人間関係の縮図が、見えやすく出ているのだとわたしはとらえている。

大学アメリカン・フットボールの不正タックル事件。怪我をさせる目的のタックルを監督が指示したとされ、それが露見して追及されても当事者が責任逃れをできると思っていた。その様が実況中継された。

「特攻隊員たちは自分で志願したのだ」という話を思い出した。

指導者が、力関係の圧倒的優位の中で、たったひとつの「正解」を用意しておきながら、一見どうとでもとれる「希望」をほのめかす。あとは、選択したのは相手の自由ですよ、という。それを、自由意志が封殺された閉鎖関係の中でおこなう。「忖度する自由意志」を与える、というわけだ。

また、アマチュアボクシング。これは極度のひいきと排斥と言えるかな。助成金を誰につけるか決めたり、判定が主催者の恣意であったり、協会に不都合な発言などをした選手を「干した」などとされる(これは芸能事務所やマスメディアの話にも似ている)。

そういうときに、内部告発と外部の調査が力を持つようになってきたという。

それは、いいことだと思う。

ただ、ひとつ言っておきたいのは、もともと、競技スポーツとは、大多数の人間にとって、心や身体にいいことでは決してないということだ。それに耐えられる心と身体の人がまれにいるというだけだ。だから特殊な人として、スターなのだ。

競技スポーツは実は「体育」にはならない。身体を健やかに育むものではないし、身体を健やかに育むことに勝負の要素はまるで関係ない。

むしろ心身をむしばむことが多い。それで人格形成が多くの人間に対して期待できるものでは、ない。そう誤解されているからこそ、日本では学校の部活があんなにさかんで過酷なのだと思うが。

単純に考えて、相手の弱点をひたすら探すというのは、あんまり性格がいいとは言えない。視野も広くはない。

競技スポーツは、ゲームだ。楽しめる人が、楽しめばいい。そして、競技スポーツというのは極言すれば、安全にするためにルールをつくられた、戦争だ。

そう、平和だからというより、戦争のアナロジーだからこそ、スポーツというのは人気がある。オリンピックを観る人を見れば、それが端的にわかる。

もし勝ち負けがなかったら、何かより大きなものを背負っていなかったら、スポーツはエンタテインメントとはならない。

西野監督の「あの選択」

しかしーー

サッカー日本代表の西野監督の、ロシアW杯グループリーグ最終戦、ポーランド戦の選択には感動した。それは衝撃と言ってよかった。

 

試合内容がよかったかというと、たしかに見ごたえはなかった。時間稼ぎは、見て面白くはない。

なんとしてもグループで勝ち残ろうという執念に感銘を受けたでもない。わたしの印象では「執念」というよりクールなものがあった。感情を脇に置けている感じがした。

ではなにに感銘を受けたのか。