1979年の甲子園。春は、春夏連覇した箕島に決勝で、夏は、蔦監督率いる池田に準決勝で苦杯を飲んだ。甲子園通算8勝3敗

「生意気」というほめ言葉が最も似合ったエース・牛島和彦の伝説

甲子園レジェンドインタビュー 第1回
近年の高校野球は、監督に注目が集まることが多い。智弁和歌山の高嶋監督、大阪桐蔭の西谷監督、日大三の小倉監督、興南の我喜屋監督……今大会も、采配に優れた監督が率いる名門が多く出場している。確かにいい指導者の指示に従っていれば、高校生はうまくなり強くなる。だが、過去には、監督に平然と逆らいながらマウンドを支配したエースも少なくなかった。そのなかでも、負けん気の強さでは図抜けていたのが、8月8日、甲子園レジェンド始球式に登板する牛島和彦さん(浪商・1979年)だろう。

「投げてんは俺や。黙って見とけ!」

「僕は自分の我を通したせいで、二度、甲子園で負けてるんです。仲間には悪いことをしたと思いますけど、それが、僕のその後の野球人生に役に立ってますね」

 

ソフトな語り口、二枚目俳優のような甘いルックス、そして理論的かつわかりやすい解説で人気の野球解説者・牛島和彦さん。あのドカベンこと故香川伸行さん(元南海)と共に大観衆を沸かせた甲子園の思い出は、決して楽しいものばかりではなかったようだ。

「浪商は僕らが3年のときまで、春は何度か出ていますが、夏は昭和36(1961)年、尾崎行雄(元東映)さんがエースで優勝して以来だったんです。しかも、僕らが2年の春まで1回戦負けが続いていたので、OBの期待は高まってましたね。香川と僕ともう一人が1年からレギュラーだったし、勝たねばという空気が強かったです」

低迷していたとはいえ、名門は名門。新人部員は約150人。練習も厳しかった。

「レギュラーであっても練習後のしごきはみんなと一緒。グラウンドを挟んであった橋と橋の間の1.7Kmをダッシュさせられるんです。上位10人ずつが抜けていくんですが、1レース目で勝負に出て、上位10人に入れなかったときは地獄でした。数時間練習した後ですからね。10本を超えたら意識が朦朧としてました」

野球未経験社にもわかりやすく解説する説明能力は、解説者の中でも群を抜いている

硬派でなる浪商。張本勲(元東映、巨人他)、山本八郎(元東映)、尾崎行雄、高田繁(元巨人)といった球史に名を残すOBたちもこの洗礼を味わったのだろう。古豪復活の期待を一身に背負った牛島さんは、この猛練習に耐え、3年生となった昭和54(1979)年、選抜大会に臨む。

「1回戦の愛知には6対1でしたが、2回戦からは接戦ばかり。高知商に3対2、川之江とは延長13回で4対3、準決勝も東洋大姫路と5対3、決勝の箕島戦のときは正直言って余力がありませんでした」

そのうえ、名将尾藤公(ただし)監督率いる箕島は、ブッシュバントで揺さぶってきた。

「バント処理してマウンドに戻るとき、ひざが笑ってるのがわかりました。2回戦からは4連投で、準々決勝は延長で270球、準決勝で150球投げてましたからね」

試合は7対6で箕島リードの8回裏。2死ニ塁で、箕島のバッターは、ここで二塁打を打てばサイクルヒット達成となる北野敏史。

「ベンチからの伝令は敬遠しろでした。でも、僕は、その伝令のチームメイトに『投げてんは俺や。黙って見とけ!』って吠えて、勝負したんです。結果はサイクルヒットを達成されて、2点差。9回に香川の二塁打で1点返したけど、追いつきませんでした。自分で勝負させろと言ったんなら、打たれちゃダメですよね」

いまどき、そんなセリフをはく高校球児はいないだろうし、いたとしても、すぐに交代させられるのがオチだ。

そして、必勝を期した夏。勝気なエースは再びサインに逆らうことになる。