地球のみなさん、こんにちは。毎度おなじみ、ブルーバックスのシンボルキャラクターです。今日も "サイエンス365days" のコーナーをお届けします。
"サイエンス365days" は、あの科学者が生まれた、あの現象が発見された、など科学に関する歴史的な出来事を紹介するコーナーです。
江戸時代の初期に書かれた『鉄炮記』には、この日、1543年の8月25日に種子島に鉄砲が伝わったことが記録されています。
種子島に漂着したポルトガル人が持っていたマラッカ型火縄長銃(種子島銃)を領主が買い取り、家臣にその製法を研究させたそうです。
火縄銃には、瞬発式と緩発式の2種があります。瞬発式は引き金を引くとバネの反発力で火皿の火薬に火縄を叩きつけて撃発するのに対して、緩発式は逆にバネの力で火縄が火皿からは慣れている状態から引き金を引くことでゆっくりと火薬に着火します。ヨーロッパでは瞬発式はあまり長く使われず、緩発式が広く用いられました。
しかし、東南アジアでは、樹木が多く狙撃に適した瞬発式が好まれ、その中で生まれたのがマラッカ型火縄銃でした。したがって、東南アジアで生まれたマラッカ型火縄銃が伝来したのは、ポルトガル人でも東南アジアに駐在していた者(またはその2世、3世)が伝えたのではないかと考えられており、古来より長弓による和弓術になじむ日本の武士にも受け入れられやすかったのだと言います。
鉄砲の戦力は戦乱が続くこの当時、大変威力のある武器として注目され、早くも1553年頃までには、その製法が各地に伝えられ鉄砲鍛冶も誕生しています。最大射程は約700メートルとのことでした。
本格的な使用は、1575年の「長篠の戦い」で、織田信長が3000挺の火縄銃によって、甲州武田氏の騎馬隊を殲滅したことが始まりとされています。
日本独自の進化をとげしつつ、瞬発式の火縄銃は江戸末期まで使われました。