被爆直後の長崎上空を飛んだ日本のパイロットは何を見たか

なぜ精鋭部隊はみすみす投下を許したか
神立 尚紀 プロフィール

2、3日するとバタバタ死んでいくんです

じつは、これまでの戦闘で戦力を消耗していた三四三空は、京都府福知山基地(戦闘第四〇二飛行隊)と兵庫県姫路基地(戦闘第四〇三飛行隊)で訓練中の、新たな「紫電改」部隊である筑波海軍航空隊(筑波空)と近いうちに交代、第一線部隊の座を明け渡す予定だった。ちょうど8月9日、筑波空飛行長・進藤三郎少佐(故人・1911年-2001年)が、その打ち合わせのため「紫電改」を操縦し、福知山基地から大村基地に飛んでいる。

 

「8月6日、広島に新型爆弾が投下され――そのときは原子爆弾とはわかりませんが――全滅した、という情報が入った。私の家は広島ですから、これは、うちも無事では済まんだろうと思いました。

筑波空はいずれ三四三空と交代する予定でしたから、三四三空から搭乗員をもらい受ける相談のため、9日の朝早くに大村基地へ飛んだんです。ところが、この日は飛行長の志賀君が不在(山登りの引率)で、話をする相手がおらん。それで福知山にとんぼ返りしたんですが、そのとき、広島上空を飛んでみた。

瀬戸内海上空から望むと、緑の山々や青い海の風景が広がるなかで、広島だけが白黒写真みたいに色がなくなってるんです。これはやられたなあ、うちも駄目だ。両親が生きているとも思えん。そう思って、家の上空を旋回して状況を確認する気にもなれなかった。私が福知山に向かって大村基地を離陸してほどなく、長崎に2発めの新型爆弾が投下されたことを知りました」

このとき、小倉上空に飛来したB-29の情報は、大村基地に着陸した進藤さんには伝えられていない。B-29に対し、築城基地から零戦が発進したことを、大村基地で把握して対応にあたった形跡も見当たらない。8月6日、広島に原子爆弾が投下されたばかりだというのに、情報共有の不備というべきか、せっかく飛んでいる戦闘機に敵機の存在を知らせることすら、当時の陸海軍はしなかった。

進藤さんは、昭和15(1940)年9月13日、中国大陸重慶上空での零戦のデビュー戦、真珠湾攻撃第二次発進部隊で零戦隊を指揮、さらに昭和17(1942)年から昭和18(1943)年にかけ、激戦地ラバウルで激戦をくぐり抜けたベテランの戦闘機乗りで、空の戦いを熟知した指揮官である。もし、上空にB-29がいることを進藤さんが知って、そちらに機首を向けていれば、撃墜できないまでも敵機の針路を変えさせ、爆撃を諦めさせることはできたかもしれない。

進藤三郎少佐

この日の三四三空の隊員たちの回想は、

「とにかく燃料がないから、敵機の邀撃も一日おきと決められ、休みの日は、たとえ空襲があっても飛ばない。8月9日も休養日でした。搭乗員全員がトラックに乗って、いまでいうハイキングですね、基地の裏山に登ることになりました。途中、店屋があって、アイスキャンデーを食べに入ったところでドカン、とものすごい衝撃があり、店のガラスが割れた。驚いて外に出てみると、長崎の方向、青空に白いキノコ雲がもくもくと上がっているのが見えました」(戦闘七〇一飛行隊・中村佳雄上飛曹[故人・1923年-2012年])

中村佳雄上飛曹

「8月9日、燃料不足でその日は飛行止めということになり、飛行隊ごとにトラックに分乗して大村と長崎の中間あたりの小高い山に登りました。ここらでメシでも食うか、と話しているところへ、上空を米軍の大型爆撃機が二機、通り過ぎていった。と、見てる間に、ものすごい爆発が起きた。そのときは原子爆弾とは知らなんだが、これは休養どころではないわいと、すぐに山を下りました」(戦闘三〇一飛行隊・宮崎勇飛曹長[故人・1919年-2012年])

と、乗ったトラックによって若干の差はあるものの、概ね一致している。

宮崎勇飛曹長

宮崎さんは、長崎の原爆被爆者の救護活動にもあたった。

「夕方になると、われわれが士官宿舎に使っていた健民道場とよばれる建物に、負傷した女学生たちが運ばれてきました。この女学生たちが、外見からはたいした怪我をしてないように見えたのに、2、3日するとバタバタ死んでいくんです。いま思えば放射能の被曝のせいなんでしょうが……。痛ましい思いで遺体を収容したのを憶えています」

そして、8月15日。戦争終結を告げる天皇の玉音放送は、大村基地にいる三四三空搭乗員の総員が、飛行場に整列して聴いた。

「終戦を知らされて、人間って不思議なもので、みんなホッとした顔をしていましたね。これで家に帰れる、と。これからどうなるか、先行きの見えない不安はありましたが」

と、被爆直後の長崎上空を飛んだ佐々木原正夫さんは回想している。

その後の三四三空は、連合軍による天皇の処刑をふくむ最悪の事態にそなえて、皇統を絶やさず国体を護持するため、皇族の子弟の一人をかくまい、養育する、という「皇統護持」の秘密作戦に従事するなど、語るべきドラマはあるが、それについては稿を改めてお伝えしたい。

ただ一つ、被爆者救護にあたった宮崎勇さんが、その後も長く、放射能の被曝によると思われる白血球異常による体調不良に苛まれていたことは、付記しておかねばならない。

――長崎市から目と鼻の先の大村基地に、日本有数の実力を誇る戦闘機隊が配備されていながら、たった3日前の広島の教訓を生かすことなく、みすみす2発めの原爆投下を許した日本陸海軍の危機管理については、これまであまり顧みられることがなかったように思える。

「ポツダム宣言の受諾が遅れた」

「2発めの原爆よりも、敵の本土上陸の足がかりとなる、沖縄で完成間近の米軍沖縄中(現・嘉手納)飛行場の脅威に気をとられていた」

など、さまざまな理由が断片的に伝わっているが、当事者がことごとく鬼籍に入ったいま、これらをさらに掘り下げて検証することはむずかしい。政府、陸海軍上層部、現場部隊、民間の防衛態勢……さまざまな要素が複雑に絡んで一筋縄ではいかない問題でもある。

だが、「過ちを繰り返さない」ためにも、もっと目を向けられてもよさそうなテーマであろう。

 
真珠湾作戦から南太平洋海戦まで多くの航空戦を戦い、貴重な日記を残した空母戦闘機隊員で、1945年8月9日、原爆投下直後の長崎上空を飛んだ佐々木原正夫さん他6人の戦闘機搭乗員の証言を収録。
 
真珠湾作戦から多くの激戦をくぐり抜け、終戦時は飛来する敵機に対する防空部隊・三四三航空隊の飛行長を務めた志賀淑雄さん他7人の証言を収録
 
 
ラバウル、硫黄島等の激戦を戦い抜き、鮫が泳ぎ回る海からも生還。1945年8月9日は長崎で被爆者の救護にあたった宮崎勇さん他7人の証言を収録。
 
 
激戦地ラバウルで最も長く戦った戦闘機搭乗員で、B-29を単独で撃墜する戦果をあげ、原爆投下時、きのこ雲を目撃した中村佳雄さん他6人の証言を収録