「娘が死んだとき、ワシは踊った」サハリンで生きる残留日本人の告白

8月15日に戦争が終わらなかった島
井戸 まさえ プロフィール

「日本人ではない」とされた日本人

残留に本人の中には節子のような例は多い。帰国をしたいが、状況が許さない。その後、環境が変わって帰国を望んだが、パスポート民族籍で阻まれたケースも多い。

残った日本女性の多くが「生きるために」朝鮮人と結婚した。戦前は朝鮮人も日本人であり、朝鮮も二つに分かれることも想定されてはいなかった。

北朝鮮の夫がいる場合は、北朝鮮籍になって、日本に入国できない。どうしても日本に帰りたく「無国籍」に変えるために、時間と費用年金の2ヵ月分を使って者もいる。

1965年から「サハリン墓参」が始まり、既に日本に帰国したかつての「島民」がサハリンを訪ねて来るようになった。

サハリン残留者にとって離散した肉親の消息を知りうる貴重な機会になった。しかし、両者が墓地等で会うことは黙認されたが、ソ連の警察に監視下にあり、墓参団に託された肉親からの小包や手紙は徹底して調べられた。

転機はソ連の体制変化とともにやって来た。

 

1986年ペレストロイカが開始され、1991年のソ連の変化により、日ソの厚い壁が崩された。

まず1988年にサハリンの外国人立ち入り禁止区域が解除された。1989年に「樺太同胞一時帰国促進の会」が発足し、同会が国に働きかけた結果、1990年には300人を目標に残留日本人の一時帰国事業も始まり、離散家族の再会が実現した。

この事業により1992年までに371名が一時帰国した。同会は、「サハリン残留者全員の希望がかなうまで続けてほしい」との要望をうけ、「日本サハリン同胞交流協会」に衣替えした。

現在まで延べ3509名が一時帰国し、305人が永住帰国した。一時帰国事業は「NPOに本サハリン協会」に引き継がれ、現在も続いている。

〔PHOTO〕gettyimages

一方で、永住帰国を求めながらも却下されて来た日本人もいる。佐藤静子である。

終戦時、彼女は母のお腹の中にいた。妊娠3ヵ月の胎児だった静子は、翌46年3月にサハリンで生まれた。生まれたのが戦後のために、一時帰国の対象者とはなるが、永久帰国の対象者にはならない。

永住帰国事業の対象者は1945年9月2日以前から引き続き居住しており、日本国民として本邦に本籍を有していた者、また同月3日以降に生まれたことされているのだが、静子の母の戸籍が確認できないため、静子も引き揚げた叔父の姪としての一時帰国の対象となっても、母の子としての永住帰国者となることはできないのだ。

父母がいつ樺太に渡ったかもわからない。両親は静子が3歳の時に離婚し、実父のことは全くわからない。母は再婚して朝鮮人の夫と暮らしていたので、父のことを聞くのは憚れた。

静子は「母が日本人」ということで、激しいイジメにあいながら、学校生活を送る。終戦前のように日本人学校があったわけでもない。

それでも家で母は日本語を通した。就学年齢に達した時には「朝鮮学校」に通った。のちに「朝鮮学校」は閉じられ、ロシアの学校に統一されていく。

「日本人」ということを常に背負いながら生きて来たのに、彼女は祖国・日本から「日本人ではない」とされる。

一時帰国の際には、叔父と涙の対面をしたり、また身元保証人もいるというのに、それでも戻れない。

すでに母親が亡くなっているし、母がいるわけでない日本がそれでも恋しい。

日露政府は2018年を「ロシアにおける日本年」「日本におけるロシア年」と、今年はさまざまな分野での交流拡大が図られている。

その一つが6月にサハリンで行なわれたユジノサハリンスク、ウラジオストクで行なわれた加藤登紀子氏の「百万本のバラ」コンサートだ。

「百万本のバラ」も旧ソ連のラトビアの歌曲。コンサートにはサハリン残留邦人も招待され「ふるさと」を合唱した。国の運命に翻弄されながら生き抜いてきた彼女たちが歌う「忘れがたき ふるさと」との歌詞には万感の思いがこもっていた。

「ロシアの日本年」の会場には「お腹の中にいた日本人」、最も若いサハリン残留日本人のひとりである佐藤静子がいた。日本語とロシア語、朝鮮語を駆使しながら、日本人、ロシア人の間をにこやかに行き来する。

静子は来年73歳。戸籍を持たなくとも、たとえ日本に住まなくとも、彼女は戦後を生き抜いて来た正真正銘の日本人だ。

【参考文献】
戸籍と無戸籍』(遠藤正敬・人文書院)
亜寒帯植民地樺太の移民社会形成』(中山大将・京都大学学術出版会)
置き去り サハリン残留日本女性たちの六十年』(吉武輝子・海竜社)
日本帝国崩壊機「引揚げ」の比較研究』(今泉裕美子・柳沢遊・木村健二編著日本経済評論社)
『昭和二六年九月一日 南樺太に於ける戦後の日本人の状況』(厚生省援護局)