「娘が死んだとき、ワシは踊った」サハリンで生きる残留日本人の告白

8月15日に戦争が終わらなかった島
井戸 まさえ プロフィール

ある残留日本人の告白

サハリンで生きる残留日本人、松崎節子は1933年(昭和8年)生まれだ。

14歳の時に終戦。父が死に、兄はソ連兵から馬泥棒の濡れ衣を着せられ、シベリアに送られ、頼る者もなく樺太の地にひとりの残された。

生きていくために、15歳でやむなく朝鮮人と結婚する。

「嫌だって言ったの。だから、夜になると何枚も何枚も着物を巻いて、解けないようにしていたの。そしたら、相手がどんどん痩せていって。家族が可哀想だと、ふたりだけで住むような家を用意されてしまった」

ほどなく、子どもが生まれる。

「わしは日本に帰りたいでしょ。この子がいたら日本に帰れないと思うと、憎くて。弱い子で、2ヵ月ぐらいで、娘死んだとき、わし、踊りました。

そんなにも日本に帰りたかった。今考えると母親としての愛情がなかった。わしが子どもだった」

 

最初の夫や家族から、節子に対する執拗なイジメがあった。日本軍への恨みを節子にぶつけてくる。耐えきれず、次に生まれた3つになる長女を連れて逃げた。

「夫が仕事に行っている間に、犬に黒パンをやって、吠えないようにして。製糖工場を抜けて、駅まで子どもをおぶって。もちろんお金がない。汽車賃もないけど、ともかく駅に行った。切符を買うことできないのだが、その時は混乱していたから、切符がなくても汽車に乗れた。こそこそしない、堂々としていたら、誰も調べもしなかった」

豊原(ユジノサハリンスク)から最後、終点の地で降りた。

腹をすかせた子どもと停車場で黙って座っていたら、朝鮮の男が寄って来た。身なりからするとそんなに悪い暮らしをしている人ではないと思った。

「その人が『誰だ?』って聞くから、日本人ですって答えたら、日本人?ここには日本人はいない、初めて見たって言われた。誰も頼る人いないのか?オレんちいくべ」

ついていくと、奥さんと子どもが2人いた。「日本人はいない」と言っていたが、実は奥さんは日本人だった。そこで1ヵ月暮らすうちに、独身の弟を紹介されて、結婚した。

「夫はいいとか、悪いとか、わしの立場では言えない。そして段々暮らしているうちに韓国の厳しいしつけが始まった。何のためにそんなに厳しくするのかって、わしが日本人だから。

日本人のために韓国行けなかったって、兄さんと旦那さんとふたりで虐める。兄さんがするから旦那さんも仕方なく虐める。

子どもそこでひとり生んだけど、ここで暮らすことできないと思って、死ねば日本にいかれねけど、晩の12時、海で死のうと思って、波打ち際に行くと子どもの顔が浮かぶ。泣きながらまた戻って来る。これが3回。結局死ねなかった。寿命じゃなかったんだね」と笑って話す。

〔PHOTO〕gettyimages

「58年の最後の疎開の船に乗っていこうと思っていたの。汽車が駅について、波止場までは歩いて30分。今だったらタクシー呼ぶんだけど、当時だからそんなのはないわ。一所懸命に歩いて波止場着いたら、船が出て行くじゃない。悔しくて悔しくて、飛んだり、地面を踏んだりした。そんな、わしを見て上着を回して、さよならーって。みんな勘違いしているのよ、見送りに来たって。

『待って!待って!!わしが乗るの!!』とジャンプをしたり、大声あげたりしたんだけど、船に乗った人は大げさに見送っていると思うだけ」

間に合わなかったのだ。帰国船は出て行ってしまった。

波止場で、何度も、何度も足を踏んで、私がいる!と叫んだが、誰も聞こえない。彼女は見送っているつもりなどない。でも船から見れば大声で別れの言葉を言っているように思えただろう。

帰国船は出て行き、節子の人生は閉じられてしまった。

節子は<前述通り>三度、海に入って自殺をしようと試みるが、子どもたちの顔が浮かんで死にきれなかった。サハリンで暮らした月日は、14歳で最初の子を失った時とはまるで違う感情を節子の中に生み出していた。

シベリアに行った兄は生きていたとわかったのは、節子が49歳のころだ。兄はロシア人と結婚して、幸せな暮らしをしていた。ずっと節子を探していたのだ。きょうだいは奇跡的な再会を果たす。

「兄が、会ったとき、首の周りを必死で触って、大きなイボを見つけると、ホンモノだ、ホンモノだって。わしには小さな頃から、このイボがあったんだ」

日本政府は松崎節子を確認できなかった。戸籍は小さなイボほどの役目も果たさなかったということなのだろうか。

サハリンにある節子の自宅にはいつも日の丸がかかっている。