「娘が死んだとき、ワシは踊った」サハリンで生きる残留日本人の告白

8月15日に戦争が終わらなかった島
井戸 まさえ プロフィール

引き揚げの実施にあたっては、州と地区に引き揚げ問題委員会が創設され、このふたつの委員会が引揚者の登録、出発の順番を決定した。

引揚者リストに定められた帰国出発の順序は、第一便は日本に家族のいる企業オーナーとその企業幹部、インテリゲンチャ、会社員。その後に労働者と、1947年の農作物収穫を終えた農民、農村の勤め人の一部。引き揚げ順番の最後は、医者、教員、技術者、宗教関係者だった。  

ソ連政権は当時困難な状況にあったため、日本人の労働力が必要だった。引き揚げのテンポを遅らせようと、見直しを何度もやった。労働者不足のために、生産活動を中止しなければならなくなる企業も出てきたためである。

樺太からの公式引き揚げは1949年7月に終了する。<再度の指摘になるが>戦争による民間人の引き揚げのうち、最後であった。

しかし、その最終引揚者からは「樺太になお2356名の日本人が残留しており、その内ソ連人、朝鮮人の妻となった者が約1000名居り、他は服役者約500名と、ソ連諸機関に留用されているもの及び残留希望者である」との情報がもたらされた。

こうして多くの日本人が残されたのである。

彼らは国境線が変わることで「本籍地」が外国となり、戸籍上は日本人とは認められない「無戸籍の日本人」となったのだ。

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1990年に認められた「サハリン残留日本人」

「サハリン残留日本人」はこうして生まれた。

しかし、その存在を政府は認めなかった。残った人々は自主的に残留した。だから日本人ではないというのだ。

こうしてソ連人、朝鮮人の妻となった約1000名は本籍抹消、また国籍の問題で日本の戸籍を得ることができなくなった。

日本人の妻となった外国人妻等は日本に帰国できたが、朝鮮人と結婚した日本人女性は帰る術を失うという事態が起っていた。

自分が日本人である証明である戸籍謄本等を保管していたとしてもそれを隠して生きなければならなかった。

残留者は親の死後見つけた戸籍謄本を棺の中に納め「せめて魂が日本に帰りますように」と祈る例も少なからずあったという。

 

樺太にあった戸籍は焼かれたり、隠されたりするが、一部はロシア側が保管している。しかし、その返還は進んでいない。

「本来、戸籍原簿なり、戸籍を証明するものを持ち帰るのは樺太庁、国の責任ではないか。残留を余儀なくされた人については早めに、国が本籍を特定したり、名簿の公開をすべきではなかったか。

戦後一歳や二歳で親にはぐれたものに、その証明をせよというのは誠に酷な話である。国が保管している引揚者名簿があるのに、それは十分に活用されていない」

長年、サハリン残留日本人の問題に取り組んできた日本サハリン同胞交流協会元会長、故・小川瑛一はいつもそう憤っていた。